26歳から29歳までの3年間の記憶がない
恵子さんの両親は、かつて東京の下町で仕出し弁当店を経営していた。
「母は銭湯の娘、父は曽祖父が立ち上げた弁当店の長男です。私は15歳まで祖父母と両親、住み込みの若い衆3人、姉と私の計9人という大家族で育ったのです。
私が生まれたころからとにかく忙しかったので、両親が寝ているところを見たことがないほど。母は姉と私を出産した3日後から働かされたそうです。当時、姑さんは強かったですし、嫁いびりも日常茶飯事でした。
でも、母は祖父母に恨みを言うわけでもなく、黙々と働いていました。幼心に『お母さんのような人生は私にはできない』と思っていました」
祖母は母に「男の子が欲しい」と催促し続けた。男だと期待したのに生まれたのが恵子さんだったので、露骨にがっかりしたそうだ。
「今の時代では考えられないですよね。祖母にしてみれば、空襲を潜り抜けて大切に守った婚家ののれんを、後継に残したいという思いがあったのでしょう。私が期待外れで生まれた女だったので、祖母は私を邪険に扱いました。私がいる前でも母に対して『女を産んでもしょうがない。男がいい』と言っていたので、その思いは強かったのでしょうね」
そんな日々が終わったのは、恵子さんが15歳のころ。
「第一志望の都立高校に合格して帰ってきたら、祖母がこたつで寝ていました。『珍しいな』と思ったら、亡くなっていたのです。74歳でした。それから半年もしないうちに祖父も亡くなりました」
45歳の父は、お店を引き継ぎ、業態変更をした。
「それまで夜の仕出し弁当が中心だったのですが、価格を安くして近くのオフィスに昼の弁当を配達するようになったのです。弁当の仕事は昼に終えて、夜は近くのレストランに働きに出ていました。思えばあれは姉と私の学費を稼ぐためだったんでしょう。両親は私たちに店を継がせたくなくて、30年前に閉業。店の土地が再開発の対象になっており、億単位のお金を得ました。両親は代替のマンションに住んで優雅な老後を送り、7年前に2人とも80代後半で幸せに亡くなりました」
働き詰めの両親を見て育ったので、恵子さんはバブル黎明期の長時間労働をなんとも思わなかった。
「24歳くらいまでは終電や深夜には帰れたのですが、26歳から色々わかるようになってきて、会社に泊まり込みで仕事をするように。月の残業時間が100時間を超えて、ただでさえいい給料が倍以上入ってくるようになりましたが、使い道がなかった。学生時代の友達は、結婚したり子育てしたりしており、完全に疎遠に。彼氏ができても激務ですぐに振られました。
そういえば、当時避けたい仕事として“3K(きつい・汚い・危険)”という言葉がありました。先輩が『俺たちも3Kだよな。“きつい・帰れない・高給”だから』と言っており、みんなで爆笑したことを覚えています」
あまりにも家に帰れず、親が心配するので実家を出てアパート暮らしを始めると、生活はさらに乱れた。
「寝ない、風呂に入らない、ご飯も適当。それでも楽しかったです。当時、コンピューターを動かすためには、私たちが手作業で準備することが必須でした。SEは職人の世界なんですよ。徒弟制度みたいな連帯感、チームで働いている充足感もあり、仕事中毒になっていたと思います」
満足に眠らず、タバコの煙がもくもくと漂う空間に、ほぼ20時間いて、食べるものは出前のラーメンや弁当など。当然、体調を崩す。
「29歳のときに、脳出血で倒れました。意識がなくなり、目覚めたらベッドの上でした。両親と姉が泣いていて我に返ったのです。医師は開頭手術で血腫の除去をしたと言っていました。今も額と生え際のところに、手術の跡がうっすら残っていますよ」
それから、半年のリハビリを経て恵子さんは復職。
「幸い後遺症はなく、再び開発部で働く気に満ちていました。休むとやる気も湧いてきて、会社に戻ったのです」
【職場に戻ったら、居場所はなかった……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。











