正岡子規像。(写真:photoAC)

「柩の前にて空涙は無用に候」

明治35年(1902)9月19日没。34歳。

9月19日は糸瓜忌。俳人・正岡子規の命日である。

子規は今から124年前の今日、明治35年(1902)9月19日の午前1時頃に亡くなった。生まれたのは慶応3年9月17日。この日付は陰暦で、太陽暦だと1867年10月14日に当たる。つまり、子規の生涯は、まる35年にひと月ほど足りない短さだったのである。従って、没年齢はここでは34歳としておく。

子規自身、若い最晩年、旧暦と新暦の日付のずれを意識しつつ誕生日を迎えていた。死の前年(明治34年)の9月2日に稿を起こし、発表するつもりもなく書き留めていた病床日録『仰臥漫録』には、同年10月27日の日付でこう綴られている。

十月廿七日 曇
明日は余の誕生日にあたる(旧暦九月十七日)を今日に繰り上げ昼飯に岡野の料理二人前を取り寄せ家内三人にて食ふ。これは例の財布の中より出たる者にていささか平生看護の労に酬いんとするなり。けだしまた余の誕生日の祝ひをさめなるべし。料理は会席膳に五品

この頃の子規は、《病床六尺、これが我世界である》と記すような寝たきりの病人となっている。常日頃、病人の看護に明け暮れながら《台所の隅で香の物ばかり食ふて居る母や妹》に報いつつ、おそらくこれが自分の誕生日の「祝い納め」となるだろうことも考え、旧暦9月17日の前日に当たるこの日、奮発して、料理屋から会席膳を取り寄せ家族三人で食したというのである。

「例の財布」とは、赤黄緑三色の木綿を縫い合わせ、病床の頭上の力綱(寝たきりの体を起こす時に使う綱)に掛けた財布で、中には子規の小遣いが入っていた。

二度と生きて会うことはできぬかも知れぬと覚悟して

そもそも子規が突然の喀血をしたのは、まだ一高在学中の明治22年(1889)5月9日の夜。翌日、医師に診察してもらうと肺結核と診断された。その夜、子規は再び血を吐く。それから1週間余り、毎夜、血を吐いた。この喀血の間に詠まれたのが、

「卯の花をめがけてきたか時鳥」

「卯の花の散るまで鳴くか子規」

など、ホトトギスを材とした数十句であった。

「時鳥」「子規」「不如帰」などと書かれるホトトギスは、血を吐いても八千八声鳴かねば鳴きやまぬと伝えられ、その悲痛な声の響きから「冥土の鳥」とも呼ばれた。ホトトギスの鳴き声を真似ると、血を吐いて死ぬという昔からの言い伝えもあり、ホトトギスは肺結核の代名詞であった。そんなホトトギスと、5月を象徴する卯の花をひっかけて生まれたのが掲出の2句。子規の俳号も、このときから使われるようになった。

当時の結核は、特効薬もなく、ほとんど不治の病であった。そのまま進行すれば、何年か先には相当の確率で死を迎える。それでも自らの病を客体化し、子規の号を名乗りはじめるのは、人並み外れて意志の強いこの俳人の、ぎりぎりのユーモアであったろう。

子規は「余命十年」を意識した。この頃、子規の同級生には親友の夏目漱石がいる。病を抱え学校を休みがちな子規を助けて、漱石は試験の日程や内容を知らせ、担当教諭のもとに足を運んで点数をもらうなど、献身的に奔走した。

その甲斐あって子規は漱石とともに一高を卒業し帝国大学(現・東京大学)への進学を果たすが、残された時間への切迫感もあって、学生生活の継続より俳句分類や自らの表現活動の方に気持ちが傾斜していく。明治25年(1892)7月、子規はとうとう学年試験に落第。これを機に大学を中退し、叔父・加藤拓川の友人である陸羯南の経営する日本新聞社に入社することを決意する。

明治27年(1894)2月、子規は東京・上野の山裾、陸羯南邸の隣の上根岸82番地に転居、終の棲家とする。この根岸の子規庵には、子規を「兄貴分」のように慕う多くの俳人や文人が集い、俳句・短歌革新の発信源となっていく。

元気な頃の子規は野球が大好きで、そして旅好きだった。日本のあちこちを歩いて紀行文をものし、遠く中国大陸へも赴いた。それが、肺結核からやがて脊椎カリエスを発症し、歩行困難な身となった。伸びなくなった左膝を曲げたまま使えるよう、座机に切り込みを入れたのも束の間、座すこともできなくなり、「病床六尺」の世界に入っていく。

漱石が2年間の英国留学へ旅立つ前、子規庵を訪れ別離の挨拶を交わしたとき、もはや二度と生きて会うことはできぬかも知れぬという覚悟は、お互いに抱いていた。

食欲と表現活動で命をつなぐ

根岸の子規庵は戦災で一度焼失したが、現在、跡地に往時の建物が復元され、明治の面影を偲ばせる。縁先には、子規生前の如くに糸瓜棚も再現されている。糸瓜の茎から採る水は、咳や痰を鎮める薬効があるとされていた。

そんな庵を取材で訪れ、蔵奥に遺される子規遺愛の小さな地球儀を、見せてもらったことがある。直径3寸(約10センチ)。門弟の寒川鼠骨から贈られたものという。子規はこれを眺めながら、英国留学中の漱石の身の上にも思いを馳せただろう。

漱石宛ての最後の書簡(明治34年11月6日付)に、子規は綴っている。

僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ニ往タヤウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。絵ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ

この手紙は実は、《僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ》という悲痛な一文で始まり、《書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉へ》と結ばれる。そんな中に《倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ》と書き込んだあたりが、子規のたくまざるユーモアであったろう。

漱石はすぐに返書をしたためるが、なお数通の手紙を書いてやりたい思いを抱きながら、勉強に追われ果たせぬまま日を重ねていく。

もともとが食いしん坊だった子規の食欲は、病臥しても猛烈だった。毎食の飯や粥を3椀平らげ、合間に10個もの菓子パンを食う。看護する妹の律と悶着を起こしながら、近所の芋坂にある老舗の団子屋へ団子を買いに走らせる一幕もあった。こうした食欲が、かろうじて子規の命をつないでいた。

食物の他にもうひとつ、病床の子規を支えていたのは、「写生」の精神に基づく表現活動であったろう。そこには、凄まじいほどの執念が感じられる。見舞いの牡丹の鉢を眺めて、「林檎食ふて牡丹の前に死なん哉」の一句を詠み、仰臥したまま絵筆をとって草花や果物などを描く。自殺の衝動と闘いながら、小刀と千枚通しのスケッチをしたこともあった。その一方で、社長・陸羯南の好意もあって終生社員として雇用された日本新聞社発行の新聞『日本』に、『墨汁一滴』『病牀六尺』といった随筆を連載した。それは、たとえば、沈痛な中に深い滋味をたたえるこんな内容であった。

病床に寝て、身動きの出来る間は、敢て病気を辛しとも思はず、平気で寝転んで居つたが、この頃のように、身動きが出来なくなつては、精神の煩悶を起して、殆ど毎日気違のような苦しみをする。この苦しみを受けまいと思うて、色々に工夫して、あるいは動かぬ体を無用に動かして見る。いよいよ煩悶する。頭がムシヤムシヤとなる。もはやたまらんので、こらえにこらえた袋の端は切れて、遂に破裂する。もうこうなると駄目である。ますます絶叫する、ますます号泣する。その苦(くるしみ)その痛(いたみ)何とも形容することは出来ない

余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた

『日本』編集部は、子規の病苦に配慮して、この連載随筆の掲載を一日見合わせたことがあった。子規はこれに対し、すぐに手紙を書かずにいられなかった。

僕ノ今日ノ生命ハ『病牀六尺』ニアルノデス 毎朝寝起ニ死ヌル程苦シイノデス 其ノ中デ新聞ヲアケテ病牀六尺ヲ見ルト僅ニ蘇ルノデス 今朝新聞ヲ見タ時ノ苦シサ 病牀六尺ガ無イノデ泣キ出シマシタ ドーモタマリマセン 若シ出来ルナラ 少シデモ(半分デモ)載セテ戴イタラ命ガ助カリマス

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」

明治35年(1902)9月19日の深夜、午前1時頃、子規の長く辛い闘病生活に終止符が打たれる。

子規庵には、この頃、子規の看護を助けるべく、門人たちが交代でつめていた。9月18日の夜は、高浜虚子が泊まり番となっていて、他の者はいったん引き上げた。

座敷に床をとったものの寝つかれず、虚子は庭に下りた。糸瓜棚の上に明るい月が掛かっていた。しばらく月を仰いでから屋内に戻り病床の子規を覗くと、静かに眠っている。母堂から「お休み下さい。また代わってもらいますから」と言われ、虚子は床に入った。と、眠るか眠らないかの内に、母堂の狼狽した声で起こされた。虚子と妹の律が枕許に駆けつけると、もはや子規の息はなかった。後年、虚子は記す。

妹君は泣きながら「兄さん兄さん」と呼ばれたが返事がなかった。跣足(はだし)のままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。
余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門を出た。
その時であった。さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかというような心持がした。
  子規逝くや十七日の月明に
そういう語呂が口のうちに呟かれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。
(『子規居士と余』)

この臨終より10数時間前、9月18日午前11時頃、妹の律と門人の河東碧梧桐の介助を受けながら、仰臥したまま痩せに痩せた手で、画板の上の紙に書きつけた次の3句が、子規の絶筆にして辞世の句となった。

「をととひのへちまの水も取らざりき」

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」

「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

死に瀕している自身を客観視し「仏」と表現する辺りが、いかにも子規らしかった。したためたあと、子規は投げ捨てるように筆を置いたという。

虚子の手紙によって、遠く海の向こうにいる漱石のもとに子規の訃報が届くのは、11月下旬。まさに、漱石が留学期間を終え、帰国の支度に追われているときだった。帰国後、紡がれていく文学作品は、書きたいと思いながら書き切れなかった亡友・子規への手紙の続きだったのかもしれない。漱石は、子規の最後の手紙と年月不詳の短い手紙、そして子規が漱石に贈った自筆の東菊の画とを一つの軸に表装し、身辺に置いて創作の励みとしたのである。

子規は『仰臥漫録』明治34年(1901)10月15日に、己の死後について遺言めいた言葉を記していた。そこには戒名は要らない、自然石の墓石は嫌だなどと述べられ、明るい調子でこうも書かれていた。

柩の前にて空涙は無用に候 談笑平生の如くあるべく候

子規庵を訪れ、糸瓜棚の傍らに立つと、今もはるかな時を超え、南国生まれの明るい男の声が縁の奥から響いてくる気がする。

【主な参考文献】
『別冊太陽 病牀六尺の人生 正岡子規』(坪内稔典監修、平凡社)、『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館)、『病牀六尺』(正岡子規、岩波文庫)、『仰臥漫録』(正岡子規、岩波文庫)、『墨汁一滴』(正岡子規、岩波文庫)、『回想 子規・漱石』(高浜虚子、岩波文庫)、『子規を語る』(河東碧梧桐、岩波文庫)、『心を癒す漱石の手紙』(矢島裕紀彦、小学館文庫)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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