もうひとつの「織田兄弟」哀しき末路
I:さて、柴田勝家の敗北で、勝家が擁していた信長の三男信孝は捕らえられ、尾張国内海で自害を強いられたと説明されました。
A:信孝が自害したのは、知多半島にある大御堂寺(愛知県美浜町)。「野間大坊」としても崇敬を集める古刹です。この寺は、かつて源頼朝の父義朝が殺害された場所でもあります。同寺のホームページには、次のように説明されています。
京都の平治の乱で、平清盛に敗れた「源義朝」がこの『大御堂寺』のある野間へ家臣を頼ってやってきました。その家臣(長田忠致・景致)の裏切りに遭い、義朝公はこの地、野間で殺されてしまいました。謀反の際、「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん」と無念の死をとげた義朝公のため、木太刀が奉納されています。義朝公のお墓や、御首を洗ったとされる「血の池」等、そのゆかりが境内に多数あります。後に源頼朝公が、亡くなった源義朝公の菩提を弔うために、建久元年(1190)に開運延命地蔵尊(お地蔵様)と不動明王・毘沙門天を納めました。そして七堂伽藍を造営します。
I:私は愛知県出身なので、野間大坊のことはよく知っているのですが、実際にお参りしたことがありませんでした。
A:大御堂寺のご住職が、源義朝の最期についての絵解きをやられています。雑誌『サライ』で取材をさせていただいたこともあります。源義朝ゆかりの地で、織田信孝が切腹したというのは感慨深いですね。
I:それにしても、秀吉、小一郎兄弟のように、仲のよい兄弟がいる一方で、弟信孝を切腹に追いやる織田信雄(演・山脇辰哉)という強烈なアンチテーゼですよね。
A:織田信孝の辞世と伝えられているのが、
昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
です。内海は当地の内海荘のことを言い表すのと同時に「討つ身」とかけているのです。「報いを待てや 羽柴筑前」というのは穏やかではありませんね。
浅井三姉妹と寧々の対面

I:今週は、浅井三姉妹と寧々(演・浜辺美波)との対面もみどころのひとつでした。寧々の出番をもっともっと増やしてほしいと熱望している私ですが、最近めっきり女主らしくなってきました。
A:秀吉と小一郎が月代を剃って登場した場面については、別記事をご覧いただきたいのですが、その場で、秀吉から発せられた台詞は、グッとくるものがありました。
I:「百姓だったわしが天下人となれば日の本中があっと驚くであろう。これほど面白きことはないではないか」「どんなものでもわしのようになれると皆に夢を見せてやりたいのじゃ。百姓も侍もともに笑って生きられる世を作る。これはわしにしかやれぬことよ」。
A:身分ががんじがらめに固められていたのが中世です。戦国時代になって下剋上という言葉とともに、身分の下の者が上のものを乗り越えていくことが珍しくない時代になったとはいえ、農民から武士となり、出世の階段を昇っていき、ついには関白にまで昇り詰めるという出世劇は、日本の歴史上最大のサクセスストーリーです。
I:あの場面は、秀吉一世一代の「宣言」の場だったのですね。
A:秀吉のような為政者は後の歴史でもいないわけではありません。ひとりが長州藩の足軽身分から明治維新後に初代内閣総理大臣に登り詰めた伊藤博文、学歴がないにもかかわらず、戦後に代議士となり、あれよあれよと自民党の中で出世して総理大臣になった田中角栄。
I:いずれも「今太閤」と称された為政者ですね。
A:以前、田中角栄の国家老=地元秘書を務められた本間幸一さんに「Aさんなどは、田中角栄のことをガチガチの保守政治家だと思っているかもしれませんが、初当選のときの田中角栄は革新政治家だったんです」といわれました。どういうことかというと、当時の政治家は地主や資産家などの「旦那政治」が主流で、そうした中で、学歴もなにもかもなかった田中角栄は、旦那政治を打ち破ったということで革新政治家だったんだ、というのです。なるほど、確かにそうかもしれないと感じたものです。
I:格式などでがんじがらめになっていた「中世」の常識を破壊して、新たな秩序を構築した信長、秀吉は「革新」だったといいたいのですね。
A:そうです。常識を覆すことができた、稀有な人物だったといえます。

※宮崎あおいの「崎」は正しくは「たつさき」。
●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり











