尾崎放哉の墓。

「春の山のうしろから烟が出だした」

尾崎放哉 大正15年(1926)4月7日没。41歳

今から101年前の大正14年(1925)の8月の一夕、京都・東山の「橋畔亭」と名づけられた瀟洒な小庵で、ささやかな送別の宴が催されていた。

送る側の庵主は、俳句雑誌『層雲』を主宰する俳人の荻原井泉水。送られるのは、井泉水の一高時代の後輩で、井泉水を師とも友とも慕う俳人・尾崎放哉。宴席には『層雲』の同人で京都在住の陶工・内島北朗も招かれていて、3人は午前3時頃まで飲みながら別れを惜しんだ。

井泉水はこの席で、放哉への餞別(はなむけ)として白扇を贈った。そこには墨跡あざやかに、「翌(あす)からは禁酒の酒がこぼれる」の一句が書きつけられていた。

野放図な酒で、幾度も失敗を繰り返してきた放哉に対し、「今夜は共に盃にこぼれるほどの酒を酌み交わそう。だが、明日からは禁酒して身を慎むのだぞ」という戒めをこめた、自由律の自作句を贈ったのである。

この扇を携え、放哉は、翌日、京都七条駅を発ち香川の小豆島を目指した。

「人間『馬鹿正直』ニ生ルゝ勿レ、馬鹿デモ不正直ニ…」

尾崎放哉は明治18年(1885)、鳥取県の生まれ。本名は秀雄という。第一高等学校から東京帝国大学(現・東京大学)の法科へ進み、卒業後、大手保険会社の東洋生命(のちの朝日生命)に就職。大阪支店次長、東京本社契約課長を経て、朝鮮火災海上保険会社の設立に当たって支配人に就任した。

こうした履歴だけを追えば、いわゆるエリートコースと言っていいだろう。

ところが、放哉は「不惑」(40歳)を間近にしてすべてをなげうつ。職を解かれ、家も捨て、妻の馨とも別れ、無一物の暮らしに入っていく。「入れものが無い両手で受ける」という秀句も、その先に生まれていく。

放哉と別れた妻の馨は、大阪の東洋紡績の女子寮で寮母兼裁縫・生花の教師として住み込みで働いて生計を立て、いつか再び夫とともに暮らす日を夢見ていた。

このとき放哉の心をとらえていたものは、一体、なんだったのだろう。

放哉は学生時代から、法律よりも哲学や宗教に関心を抱いていた。鎌倉の円覚寺にも参禅し、真っ正直に生きたいと願っていた。

そういう、ある意味、純粋な性格は、ともすれば利潤優先で突き進もうとする会社組織になじめないところもあったのだろう。まして、放哉の周辺には、立身出世のためには他を貶めても省みないような連中が少なくなかったらしい。大阪でも、朝鮮でも、放哉の心は深く傷つけられ、人間不信に陥った。

一方で放哉は、野放図な酒飲みでもあった。

あまりにも荒んだ仕事場の人間関係の中では、酒でも飲まないとやっていられないという気持ちもあったのか。

それにしても、放哉は朝から酒の匂いをさせ、出勤するときはいつも大島紬に袴姿。その大島は、そのまま放哉の寝間着代わりであった。背広は一着も持たず、たまに着る洋服といったら、礼服のタキシードのみ。

馨夫人は手許不如意(てもとふにょい)でしばしば質屋通いをしていたというから、会社から出る安くはないサラリーを、放哉はおそらく、ふんだんに飲み代に費やしていたに違いなかった。

「禁酒」を誓約して実現した朝鮮での支配人職も、昼間は職責を果たしても、夜となれば約束を反故にする酒の失敗がつきまとった。後年、放哉が友人に書いた、こんな手紙が残っている。

《支配人トシテ基礎工事ヨリ仕上ゲ、人間モ作リ満一ケ年ヲ経過シテ〇〇万円ノ積立金ヲ残ス事ヲ得、仕事ハコレカラト云フ処デ社長ノ命ニヨリテ辞スルニ至ル。(略)小生ガ悪カッタ事、事実ナラン。但小生今猶々、自分丈ケハ天地ニ恥ヂヌト思ッテ居ル。要スルニ此ノ『馬鹿正直』ガ祟リヲナシテ、人ノ悪イ連中ガ社長ニイロ/\吹キ込ミタル結果也。皆又東洋生命ニオケル時ト同ジ。(略)人間『馬鹿正直』ニ生ルゝ勿レ、馬鹿デモ不正直ニ生ルレバ、コンナ苦労ハセヌ也》(大正13年12月15日付、佐藤呉天子宛て)

家を捨てたあとの放哉は、京都、兵庫、福井と、各地の寺院などを寺男や堂守として渡り歩いた。そして、小豆島に落ち着き先を見出すべく、荻原井泉水から贈られた白扇を携え海を渡っていった。

土庄には『層雲』同人で醸造業を営む井上一二がいて、放哉のために奔走した。同じく『層雲』に参加する俳人でもある西光寺住職の杉本玄々子(げんげんし)に相談し、西光寺の奥の院、南郷庵が放哉の棲家と決まった。小さな土間に続く3畳の小上がり、続いて8畳の間、その奥に一段高く仏を祀る6畳間のある、ささやかな建物。8月20日、放哉はこの庵に落ち着いた。

お遍路さんの賽銭などによって南郷庵に入る収入は、年間50円程度。人ひとりの飢えをしのぐのが精一杯の金額であった。それでも、放哉はこの庵をいたく気に入り、焦がれていた独居無言、虚飾排除、句作三昧の暮らしにひたれる幸福を噛みしめていた。

食事は焼き米、炒り豆、芋などの粗食に甘んじ、経を読み句作に励む。世を捨てた詩人の生活であった。半間四方の小窓から瀬戸内の海が望めるのも、放哉には何よりの喜びであった。放哉は慈愛深き母のような海が大好きであった。放哉の『入庵雑記』には、小さな窓から外を眺めると、3、4軒の人家、畑などがあり、その先に小高い堤と、少しだけ海が見えるとして、こんなふうに綴られる。

《海は丁度渠(みぞ)の如く横さまに狭く見られる丈でありますけれども、私にはそれで充分であります》

ただ、酒はやめられなかった。井泉水から贈られた件の扇を前に「明日からは禁酒。今日は飲んでいいのだ」とばかり、禁酒の約を破ることもしばしばであったという。

自然の景色の中で、青空と青草を見つつ死にたい…

流浪生活の疲れもあってか、その後、放哉は風邪をひきこみ、気管支炎を患った。薬を飲んで咳はいったんおさまったかに見えたが、秋から冬と日を重ねる中、体は次第に衰えていく。この頃すでに、放哉の体は危機的に蝕まれていた。朝鮮火災保険会社退職の直後、満州(現・中国東北部)で罹患した湿性肋膜炎が起因となっていた。南郷庵に吹きつける冬場の烈風や栄養不足も、病躯にはこたえたのだろう。年明けの2月、島の医師の診察を受けると、肋膜炎癒着後にくる肺結核が見られ、合併症として喉頭カタルも発症していると告げられた。

放哉の体を案じた井泉水は、京都の大学病院への入院を勧める手紙を送った。だが、放哉は、次のような懇願に恫喝さえも交えた調子の返書を書き送って、けっして南郷庵を離れようとしなかった。

《若(も)し、今、無理に「庵」を出よと云ふものアレバ、丁度よい機会故、食を絶って死にます決心……今少し位、長く生きられる放哉を、早く殺さんでもよいではありませんか(略)今死すとしても、コウ云ふ自然の景色の中で、青空と青草を見つつ死なせてモライたいのです》(大正15年3月23日付)

放哉の心の中では、最初に南郷庵に入ったときから、ここを終焉の場所と明確に定めていた。絶対にこの庵を動かぬ決心で、「咳をしても一人」の句を生む独居無言の生活に入り、やがてやってくる死をただ静かに待つ覚悟であった。

そこにはいつか、死に親しむ境地さえ生まれようとしていた。少し前(大正15年2月20日付)の井泉水宛ての書簡の中には、《何等一ツノ「執着」をも持って無い放哉故……全く、今の「死」は「大往生」であり、「極楽」であります》という言葉も綴られていた。

小豆島では、井上一二や杉本玄々子の他に、もうひとり、近所に住む漁師の妻の南郷シゲという老婆が、何かと放哉の面倒を見てくれていた。

大正15年(1926)3月頃から喉頭結核が悪化し、放哉は食べるものが喉につかえるようになった。「肉がやせて来る太い骨である」は、痩せ衰えていく病身を直視して生まれた句であったろう。

この頃、放哉の枕許には、おシゲ婆さんが持ってきてくれた一鉢の木瓜が、春の訪れを告げて赤い花弁を綻ばせていたという。

4月7日、放哉はおシゲ婆さんに見守られるようにして逝去した。自然の中の人間の営みを末期の目でいとおしむような、

「春の山のうしろから烟が出だした」

が最後の句となった。

あるいは、放哉が見たその烟は、自らの体を荼毘に付して、魂もろとも天に昇っていく、想像の中の烟であったのかもしれない。生をいつくしみ、なつかしみ、大きな自然の中へ帰っていく心持ち――。

いずれにしろ、熱烈に望んだ場所で、待ち焦がれていた暖かな春を迎えてからの静かな死は、本人の願望を反映した最期であったろう。

放哉逝去後の深夜、午前1時頃、ひとりの女性がタクシーで西光寺に駆けつけた。南郷庵で放哉の亡骸と対面すると、女性は膝をつき号泣した。寺の住職の杉本玄々子や、葬送のため翌日来島した荻原井泉水に、女性は「尾崎秀雄の妹」と名乗った。後日、この女性は放哉の妻・馨であったことがわかり、人々の胸を深くえぐった。

【主な参考文献】
『人間尾崎放哉』(上田都史、潮文社)、『尾崎放哉 ひとりを生きる』(石寒太、北溟社)、『尾崎放哉 随筆・書簡』(俳句文庫・文春堂)、『尾崎放哉』(伊沢元美、桜楓社)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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