文/濱田浩一郎

織田信長像。写真:photoAC

長島一向一揆の鎮圧に苦慮する織田信長

天正2年(1574)7月13日、織田信長とその後継者・信忠は、伊勢長島一向一揆を討伐するため出陣し、津島に陣を張ります。同年の長島の一向一揆討伐には木下藤吉郎の弟「木下小一郎」(秀長)も加わっていました。信長の一代記『信長公記』にはこの時、初めて「木下小一郎」との名が登場しています。

では、長島一向一揆討伐は、どのような戦だったのでしょう。信長と長島の一向一揆の者たちは、これまでにも刃を交えてきました。例えば、元亀2年(1571)5月、信長は長島に三方から侵攻。この時も信長は津島まで参陣しています。織田軍は、村々に「放火」したので、一揆勢は山中に移動。移動した場所は、右手に大河あり、左手には山の崖道ありという難所でした。一騎打ちをするより仕方がないような場所に、一揆勢は、弓・鉄砲を配して守りを固めたのです。

織田方の重臣・柴田勝家は、殿軍を務めていたのですが、一揆勢に急襲され、戦うも軽傷を負い、退却を余儀なくされます。2番手に控えていた氏家卜全は一戦を交えますが、戦いの末、討ち取られてしまいました。その家臣数名も戦死しています。織田方の敗戦でした。

続いて、織田方と長島の一揆勢が干戈を交えたのが、天正元年(1573)9月のことです。攻撃には「羽柴筑前守」(秀吉)も参加していました。この時、織田軍は諸城を落とし、帰陣しようとしますが、そこを襲ったのが、長島の一揆勢でした。一揆勢は、山中を先回りして、道々の要所を塞ぎ、弓・鉄砲をもって、織田方に攻撃を仕掛けたのです(10月25日)。しかし、攻撃の際には、雨が降っており、鉄砲は役に立たなかったとのこと。ちなみに、一揆勢には、伊賀・甲賀の弓の名手も加わっておりました。撤退する織田軍に追撃を仕掛けてくる一揆勢。織田方に討死する者も出ますが、信長は何とか岐阜に帰り着くことができました(10月26日)。この時もまた信長は一揆勢によって痛い目にあわされたのです。

信長が一揆勢を殲滅するために行ったこととは?

そして次なる戦いが、先述した天正2年(1574)7月のものでした。「長島御成敗」(『信長公記』)として信長父子は出陣。「隠れなき節所(難所)」と同書に記された長島。南には、水をたたえた海があり、周囲には大河が流れており、天然の要害となっていたのです。同書は、その長島に隣国から「佞人・凶徒」らが集まり、念仏修行を根本とせず、乱舞し、世俗の作法に従い、数箇所に城を構え、織田の支配地を押領していたと記します。

元亀元年(1570)には、信長が浅井・朝倉軍と対陣している隙に一揆勢を蜂起させ、信長の舎弟・信興を自害させたとも記載されています。よって、信長は日頃から一揆勢に「御鬱憤」(『信長公記』)を抱いていたのでした。信長は早尾口(愛西市)から侵攻しますが、その先陣となったのが「木下小一郎・浅井新八・丹羽五郎左衛門…」といった面々です。篠橋(三重県桑名郡)より一揆勢が進出してきますが、それに対抗するため馳せ向かったのが、木下小一郎と浅井新八でした。同戦における秀長の活躍といったものは、同書には記されていません。

四方から攻め寄せて、一揆勢を追い詰めていく織田軍。織田方には、伊勢の大船数百艘があり、それが海上を隙間なく埋め、一揆勢を圧迫します。また「大鉄砲」をもって、一揆勢が籠る塀・櫓を打ち崩しました。さすがの一揆勢もこれには耐えきれず、許しを乞うてきます。だが、信長は一揆勢の降伏を許しませんでした。「佞人を懲らしめるため干殺にする」「年来の過失や狼藉の鬱憤を晴らす」と言って、一揆勢の要請を跳ね除けたのです。「干殺」というのは兵糧攻めのことです。

8月2日の夜、風雨が強い時を見計らい、一揆勢は城(大鳥居)を脱け出そうとしますが、織田方は容赦なく、これを襲います。「男女千」ばかりを切り捨てたのです。9月29日にも、一揆勢は長島を退去しようとしますが、織田方はそれも襲います。多くの船に乗り、退去していく一揆勢。それに対し、織田軍は鉄砲を打ちかけたのです。一揆勢の中には、捨て身の攻撃を仕掛けてくる者もおり、織田軍にも損害が出ます。中江城・屋長島には男女2万余が籠城していましたが、織田軍は両城の周辺に幾重にも柵を設けていました。一揆勢を逃さぬためです。織田軍は彼・彼女たちに何をしたのか。四方より火をつけて「焼ころし」(焼殺し)にしたのでした。一揆勢を多く殺し、これまでの憤りを晴らした信長は、9月29日、岐阜に帰陣しています。一揆勢の殲滅を織田方は「本願寺念仏修行の道理をば本とせず」「俗義を構え」と非難し、正当化しています。比叡山延暦寺焼き討ちの際の論理と似たものと言えるでしょう。

【主要参考文献一覧】
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長』(KADOKAWA、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)

文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。
兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。
著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。

 

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