現在の京都府南部にあたる「山城国」。平安京が置かれて以来、政治・文化の中心地である京都を抱え、戦国時代には「天下」をめぐる争いの重要な舞台となりました。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、清洲会議の結果、秀吉が手にした国の一つとして山城国が登場します。その後、秀吉は京都に聚楽第(じゅらくだい)を、さらに伏見に壮大な城と城下町を築きました。
では、山城国とはどのような国だったのでしょうか? 名前の由来とともに、信長・秀吉の時代を中心に見ていきましょう。

「山城国」の読み方と名前の由来
まずは、読み方から確認しましょう。
「山城国」の読み方は……
「やましろのくに」です。
現在の京都府南部にあたり、京都盆地から木津川流域の南山城までを含む地域でした。
古くは「山代」、のちに「山背」と表記されました。国名は、政治の中心だった大和国(現在の奈良県)から見て、奈良山の「山の後ろ」にあたることから「やましろ」と呼ばれたという説が有力です。
延暦13年(794)、桓武天皇が平安京へ遷都すると、「山背国」は「山城国」へと改められます。「山河が自然の城をなしている」という意味を込めた改称でした。
以後、京都を抱える山城国は、日本の政治・経済・文化の中心地として特別な位置を占めることになります。
戦国時代の「山城国」の変遷
ここでは特に戦国時代に絞って、「山城国」の移り変わりを見ていきましょう。
三好氏から信長の支配へ
戦国時代の山城国では、細川氏に続いて三好長慶(みよし・ながよし)が勢力を伸ばしました。長慶の死後は三好三人衆が実権を握りますが、やがて大きな転機を迎えます。
永禄11年(1568)、足利義昭(あしかが・よしあき)を奉じた織田信長が上洛したのです。

信長は桂川以西の西岡を細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)に与え、勝竜寺城を山城支配の拠点としました。それ以外の京都や山城国については、秀吉や明智光秀ら有力家臣が共同で支配したと考えられています。
その後、信長と義昭が対立。天正元年(1573)、義昭が籠もった槇島(まきしま)城が落城すると、室町幕府は事実上終焉を迎えました。
本能寺の変、そして秀吉の時代へ
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が死去すると、山城国は再び大きな転換期を迎えます。
秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、清洲会議を経て信長の後継者として急速に存在感を高めていきました。山城国を掌握することは、京都と朝廷を押さえることにもつながります。天下を目指す秀吉にとって、きわめて重要な土地だったのです。

秀吉は京都に聚楽第を築き、さらに伏見城と城下町を建設しました。文禄3年(1594)ごろからは宇治川の流れを変え、堤を築き、大坂・伏見・京都・大和を結ぶ交通網も整備します。
こうして山城国は、戦乱の舞台から、秀吉による天下統一を支える政治・交通の一大拠点へと姿を変えていきました。
最後に
山城国は、信長にとっては畿内支配の要であり、秀吉にとっては新たな天下を築くための重要な足場でした。
清洲会議を経て勢力を伸ばした秀吉が、その後、京都や伏見をどのように自らの政権の中心へ取り込んでいったのか。山城国の歴史を知っておくと、『豊臣兄弟!』で描かれる秀吉の「天下人への道」も、より立体的に見えてくるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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絵/ぐう(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











