宝塚音楽学校と大劇場。

「神様の思し召しかもしれない」

園井惠子 昭和20年(1945)8月21日没。32歳

昭和20年(1945)8月17日、宝塚歌劇団出身の女優・園井惠子は、遠く岩手・盛岡に住む母親に宛てて手紙を書いた。その中には、こんな一節が綴られていた。

《ほんとうに九死に一生を得たとはこのことです。……三十三年前の、しかも八月六日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。

時局のこうした流れのなかにも、日本国民として強く立ち上がるようにと、神様の思し召しかもしれないと、おおいに張り切っています。

ほんとうの健康に立ちかえる日も近いでしょう。そうしたら、元気で、もりもりやります。やりぬきます。

これからこそ、日本の国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うための、なんらかのお役に立たなければなりません》

2日前の8月15日に昭和天皇の降伏宣言があり、とにもかくにも、長く悲惨な戦争が終わった。荒廃しきった人心と国土の復興へ、なんとか新しい一歩を踏み出していこうとする若い生命の息吹が、手紙の行間から伝わってくる。

あるいは、そこには、心配しているであろう故郷の母の心を、少しでも安んじ、元気づけたいとの思いもひそんでいただろうか。

だが、数日後には、この乙女の命ははかなく消えることになる。

というのも、九死に一生を得たと思ったその事態は、8月6日午前8時15分、広島市に落とされた原子爆弾だったのである。

その日の朝、広島の空は晴れていた

園井惠子は大正2年(1913)岩手県の生まれ。本名は袴田トミ。雪深い山里で幼少期を過ごしながら、宝塚への憧れを育てた。家族の反対を押し切って、15歳で小樽高等女学校を中退して、憧れの宝塚音楽学校へ入学。多くの舞台をつとめ、演技派として活躍した。

退団後、劇団「苦楽座」に参加する一方で、大映映画『無法松の一生』(昭和18年封切)で、阪東妻三郎の相手役に抜擢されて好演。戦時下の検閲で10分ほどカットされての公開だったが、この一作で、園井惠子は女優としての名声を一気に高めた。

ちなみに、阪東妻三郎は、無声映画時代から戦後にかけての日本映画界の大スターで、のちに俳優として活躍する田村三兄弟(田村高廣、正和、亮)の父である。

昭和19年(1944)に入ると戦況の悪化に伴って、演劇を含む高級享楽が停止された。多くの劇団が「日本移動演劇連盟」に加わり、各地の軍需工場などを慰問しての巡演を行なっていくことになる。園井惠子の苦楽座も例外ではなかった。

昭和20年(1945)3月、東京などの大都市が空襲を受け始めたため、連盟は劇団を地方に停留させて活動する「劇団疎開」を実施する。苦楽座も「桜隊」と名を変え、広島へ向かうこととなる。惠子は当初、広島行きには賛同していなかった。広島は軍都であり、これまでなぜか空襲を免れていたが、次に狙われるのは広島だという噂も聞こえていた。

この頃、惠子が神戸の中井志づに送った手紙にはこんなふうに書かれている。

《広島へ劇団疎開することに決まり、私も一緒にまいることになりました。
「生きていくうえは、いま死んでも、悔いない生活でなくてはならない」。このごろ盛んに謳われている言葉ですが、ほんとうにいま死んでもいい生活をしている人が、幾人いるでしょうか。求め求めて、とうとう広島行きとなりました》

女優として舞台に立ちたい、演じたいという思いの方が、自身の中でまさっていて、最後は広島行きを決断したのだろう。

6月22日、桜隊一行は、広島市堀川町に宿泊寮を構えた。7月にはそこから山陰巡演の旅に出る。巡演を終えると、惠子はいったん神戸の中井義雄、志づ夫妻宅で休養した。中井志づは小樽女学校の先輩で、惠子は中井夫妻を親のように慕っていた。中井家では惠子は家族同然の扱いを受けていた。

8月初め、惠子は中井家を後にして広島の宿泊寮へ戻る。8月6日の誕生日は隊員に祝ってもらうからと、小豆を持参して広島へ向かったという。

その日、8月6日、広島の空は朝から青く晴れ渡っていた。

朝食後、惠子は中井家からの持参品を皆に御馳走しようと、お盆にのせて寮の廊下を歩いている途中、玄関の方から異様な光が走り、轟音とともに放り出され、壁の下敷きになった。気がついて壁の下から這い出すと、外は夕方のような暗さで、町は無惨に破壊されている。

もうひとり、廊下の籐椅子に腰掛けていて一命をとりとめた高山象三と助け合って、なんとか1キロ先の比治山の防空壕に逃れ一夜を明かした。途中、皮膚がボロのように垂れ下がって血まみれの人々や、半狂乱のようになって悶絶する人々らがいて、地獄のような光景だった。

それでも、高山は足の指先にちょっとした傷があるくらいで、惠子に至っては、これといった傷は見当たらなかった。翌日、知り合いの農家を目指して夜通し歩き、そこでお金を借りて山陽本線復旧1号列車に乗り込んだ。ようやく神戸の中井家に到着したのは、8月8日の午後だった。

地下足袋と男物の短靴を片方ずつ履き、洋服は黒ずみ顔は薄汚れている。そんな惨めな姿の惠子は、最初、中井志づにも見分けがつかないほどであった。

入浴をすませたあと、高山は相当に弱っていてすぐに床についたが、惠子は元気で、高山の看病をしたり、病院へ運ばれる高山に付き添うなどの日々が続いた。

8月15日に終戦。惠子の胸の奥からは、「これでやっと思いっ切りお芝居ができるわ」という言葉がもれ出た。女優として、これから明るい未来が拓けていく。そんな予感に身震いするような思いを感じていたのだろうか。

岩手の母に宛てた惠子の手紙にも、こうした希望が映し出されていた。

ところが、運命の残酷さよ。

この頃を境に、大量の放射線を浴びた惠子の体に異変が生じはじめていく。

髪の毛が抜ける。食欲がなくなる。歯茎から出血がある。その後は、尿や便にも血がまじり、高熱に悩まされた。まもなく胸の苦しさを訴えるようになり、皮下出血の紫色の斑点が全身に広がり、ときどき幻覚症状が襲う。もう、手のつけられないような状態に陥っていくのだった。

大学病院での診察も叶わず…

8月20日、高山象三が死亡した。病床の惠子にはこの事実は秘密にしていたが、翌8月21日、看病に当たっていた宝塚時代の後輩・内海明子(宝塚理事の内海重典の妻)に向かって、惠子は、

「象ちゃん、亡くなったんじゃないの?」

と弱々しい声で尋ねた。

明子が必死でごまかすと、40度以上の高熱に苦しみながら、こう呟いた。

「阪大病院に行きたい」

これは「もっと生きたい」「生きて演じたい」という命の叫びでもあっただろう。明子は「熱が下がったら」と言い聞かせ、ひとかけらの氷を求めて何軒もの氷屋を回った。ようやく手に入れた氷でガーゼを冷やし、鼻と口元に当てると、惠子は、

「ああ、気持ちいいわ」

と、あえぐように言った。

これが明子の耳に残った惠子の最後の言葉であった。

夕食を摂るために一度帰宅した内海明子のもとに、危篤の報らせが届いた。駆けつけるとすでに、惠子の意識は朦朧としていた。中井家の家族と、息子の死に目には間に合わなかった高山象三の両親、新劇の演出家の八田元夫、そして内海夫妻に見守られながら、惠子は息を引きとった。

心のふるさととして惠子が愛した宝塚の近郊、家族のように親しんでいた中井家で、親しい人たちに見守られての落命は、この不幸な時代にあっては「まだしも」のものであったとでもいうのか。

これも、神様の思し召しだったのか--。

遺体は翌8月22日、荼毘にふされ、9月1日の合同告別式ののち、盛岡市内の恩流寺に葬られた。

爆撃を受けてから2週間。一見、無傷でありながら、なお死を迎えなければならなかった園井惠子。戦後81年の現代日本を生きる私たちにとっては、彼女の死を忘れず記憶にとどめることで、原爆の恐ろしさ、戦争を起こして、そんなものを使わずにおれない人間のおろかさを思い、その悲惨を訴え続けていくしかない。

悲劇的な最期から、学ばねばならないものがある。今を再び、日本の「戦前」にしないために。

【主な参考文献】
園井惠子資料集』(岩手県松尾村編)、『1945最後の秘密』(三浦英之、集英社)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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