日本皮革製品マイスター・かばん部門の長江幸雄さん。手にしているのはナガエのランドセル「フリフリ」。

子どもが初めて手にする本格的な鞄といえばランドセル。特に指定されていない学校もありますが、ほとんどの小学生がランドセルを買い求め、いまや日本の独特な文化とも言える存在です。

現在、その大半は大手メーカーの人工皮革製が占めるようになりましたが、本革を使い、ひとつひとつ手作業でランドセルを仕立てる職人もまだ残っています。名古屋に住む革職人の長江幸雄さんは、そうした職人のひとりでした。ダレスバッグや本革製ランドセルなどを半世紀以上にわたって作り続けてきた、鞄作りの名手です。「ナガエのランドセル」という名を聞いたことのある方も少なくないのではないでしょうか。数少ない「レザーグッズマイスター」のひとりであり、2022年には鞄職人として初めて黄綬褒章を受章した方でもあります。

その長江さんが、今年4月、ランドセル製作から引退しました。しかし、鞄作りにかける情熱は、実は少しも衰えていないといいます。革職人の第二の人生として、新たな挑戦に乗り出した長江さんにインタビューしました。

なぜランドセル作りから引退したのか

これまでの自分の人生について語る長江さん。なかなかハードな職人人生ではあったが、語るときは笑顔を絶やさず。

長江さんの引退宣言は突然でした。昨年、名古屋の同業者組合の席で「今年でランドセル製造から引退する」と表明。名古屋を代表するランドセル工房の主であり、皮革製品マイスターでもある長江さんの決断に、周囲の同業者も驚きを隠せなかったといいます。なぜ、このタイミングだったのでしょうか。

「ランドセルは、作って売ったら終わり、というわけにはいきません。6年間の修理保証をしなくてはいけない。私は今76歳ですから、6年後には82歳になります。最後まで責任を持ってちゃんと保証するためには、今がギリギリのタイミングかな、と考えて引退を決めました」

しかし「いいものを少しだけ」というコンセプトのもと、素材の革選びから金具の選定、縫製糸に至るまでこだわり抜かれた「ナガエランドセル」の灯が消えてしまうのは、あまりにも惜しいこと。どうにかその技術を残せないか――そう動いた同業者がいました。

「その会社の社長がすぐに飛んできて、『技術を継承させてほしい』と言われました。『継承ってどうするの?』と聞くと、『ナガエのランドセルを作りたい』と。幸い、その会社には、昔、製造部門にいた人間が2人残っていました。『彼らがいるなら大丈夫だろう』ということで、事業を継承してもらうことにしたんです。もちろん、最初は私が監修という形で、きっちりと技術を伝えます」

今後の修理や物作りに必要な工作機械を残し、およそ1年をかけて工房内にあった大部分の機械類を新体制の工場へ移設。今年(2026年)、新たな体制で製造された「2027年4月入学用モデル」から、新生「ナガエランドセル」がスタートを切っています。

初めて作った革の鞄で全国トップに躍り出た

長江さんは1949年生まれ。父親も鞄職人でした。しかし、最初から鞄職人を目指そうとしたわけではなく、好きな機械関係の道に進もうと、工業高校の機械科を志望します。

すると母親から「機械科は大変そう。特に冬の冷え切った作業場で、冷たい鉄材や大きくて重い機械類と格闘しなきゃならない。シモヤケやケガにも悩まされそう」「化学科のほうが白い上着を着て試験管を振る作業だからいいんじゃない」と言われ、それもそうかな~とあっさり方向転換して、工業化学科へ進学することに。

「でもいざ入ってみると、試験管に薬剤と試薬を入れて『何が入っているか当ててみろ』と言われたり、化学式を覚えさせられているうちに、すっかり化学が嫌になっちゃって(笑)」

時は高度経済成長期。同期の仲間たちは大学へ進んだり、就職組も次々と一部上場企業への就職が決まっていきましたが「大きな会社で嫌いな化学なんてとてもムリ…」と考えた長江さんは原点回帰を選びます。父親が幼稚園の通園バッグを作っていたこともあり「物作りが好きなんだからカバン屋もいいかな?」と…。

父親に相談すると、「カバン職人になるなら東京で一流の技術を修めてこい、日本一の職人さんに習ってこい」と。その父親のアドバイスに従い、名古屋のランドセル職人の紹介で、東京のメーカーへ。大学に4 年間通ったつもりで修業をする生活が始まりました。1968 年のことでした。

「どんなものでも、自分で作れるかなと、とりあえずやってみることが大事」と長江さん。

「皮革のビジネスバッグなどをつくる15名くらいの会社でしたが、社長は物作りはしないものの弁理士の資格を持っていて、技術の開発やデザインに熱心な人でした。とてもありがたかったのは、業界がいちばん活況を呈していたときに、一番の名人の師匠の横で仕事をさせてもらったこと。だから4 年間、師のやっていることをずっと見ることができたんです」

4 月に入社して2 カ月ほど経った6 月、日本鞄協会の鞄の技術コンクールが開催されました。みんなでそこを見学に行ったとき、長江さんは大きな衝撃を受けます。

「大量の出品作品が並んでいることにまず驚きました。しかも、若い職人達が『これ、オレが作ったんだよね』『今年もダメか~、審査員も見る目がないな~』などと言い合っている。みんなすごい勢いで切磋琢磨しているのです。こんな世界があるのかとショックでした。そのとき、この道でやっていこう、と初めて心を決めました」

しかし、最初の2年間は革の裁断ばかり。最初から革包丁をうまく使えたわけではありません。研ぎ方が分からず、切れ味の悪さに困り果てました。

「先輩に聞いても、『研げば切れるよ』と言われるだけ。昔のことですから、周りは何にも教えてくれません。試行錯誤を繰り返すうち、刃先が研げればいいんだと気づき、刃先と砥石に指先を当てて研いだところ、見事に切れるようになった。それはよかったのですが、指まで一緒に削れて痛くてね。そんな作業の繰り返しでした」

長い刃を持つ革包丁2本が、1年で長さ1cmほどになるまで研ぎ続ける日々。しかし、そんな過酷な作業も「楽しかったですね」と長江さんは笑顔で振り返ります。当時は仕事場で寝泊まりするほど入れ込んでいましたが、つらさは微塵も感じなかったと言います。「日本一の鞄職人になってやる、と思い始めていましたから」。

やがて、入社時に味わったコンクールの感動がどうしても忘れられなくなった長江さんは、社長に「私にも作品を作らせてください」と直談判します。

「その社長は鞄を作る人ではありませんでしたが、とても理解のある方で、『挑戦してみなさい』と言ってくれました」

そこから長江さんの挑戦が始まりました。革を1枚もらい、仕事が終わってからデザインを描き、夜な夜な革を裁断して作業を続けました。「出展する前の日はほとんど徹夜でしたね」。

そうして、長江さんが生まれて初めて作り上げた作品は、まず東京都のトップである「東京都知事賞」を受賞。さらにその翌日、全国から集められた作品の審査が行われ、「全国鞄創作技術コンクール 特許庁長官奨励賞」の栄誉に輝きます。なんと、鞄の創作部門で全国1位の座を掴み取ったのです。長江さんがまだ、20歳のときのことでした。

バブル崩壊でランドセル専業に

「あのときのコンクールでトップになっていなかったら、鞄屋を続けていなかったかもしれません」と語る長江さん。それはまさに、その後の人生を決定づける大きな出来事でした。

結局、その東京の会社には4年半在籍しましたが、完成品としての鞄を作ったのはコンクールの出品作品だけでした。普段は鞄のジッパーを縫い付けるような基礎的な仕事を地道に続けて、名古屋へと帰郷します。

「本格的な鞄作りが始まったのは、名古屋に帰ってきてからです。最初は東京のメーカーを紹介してくれた職人さんのところで1年半ほどランドセルを作りました。その後、実家を継ぐかたちで鞄屋として独立したんです」

当時はエルメスやルイ・ヴィトンなどのハイブランドが流行り始めた頃。ビジネスバッグを中心に、小物から高級な鞄まで、あらゆる革製品を手がけました。長江さんの代名詞とも言えるダレスバッグを作り始めたのもこの時期です。

「ダレスバッグは鞄の中でいちばん難しいんです。形状が複雑ですし、パーツも多い。鞄の口金を隙間なく本体と合わせたり、革の厚みを部位ごとに調整したりと、非常に繊細な作業が必要です。だからこそ、職人としてのやりがいがある」

長江さんが製作したダレスバッグ。

問屋にサンプルを持ち込み、注文をとって生産して卸すという昔ながらのスタイルでしたが、好景気の後押しもあり、5名ほどの職人を抱えなければ追いつかないほど売れた時代でした。しかし、その勢いも90年代初頭のバブル崩壊によって急激にしぼんでいくことになります。

問屋に頼らず、自分が作ったものを自分で売るために、長江さんは事業規模を見直します。東京の見本市に出品したり、当時はまだ珍しかったホームページを自らソースコードを書いて立ち上げたりと、1990年代の後半には生き残りをかけた様々な手法を模索しました。

そして最終的に出した結論が、ランドセル専業の鞄工房になることでした。2000年頃のことです。以来、「いい物を少しだけ」というコンセプトのもと、デザインから革の裁断、組み立て、縫製までを長江さん自身が一手に行い、全国の子どもたちに最高の一品を届けてきました。

長江さんの革製作になくてはならない道具たち。革包丁、きり、ハサミ、小型ナイフ、革用の糸、ミツロウ、へらなど。手入れがとても行き届いている。

技術を伝えることが私の使命

これまでの職人人生を振り返り、「修業は大変だったが、私は本当に恵まれていたと思う」と長江さんは言います。「私なんか足元にも及ばないような、腕利きの職人が大勢いましたからね」。そうした先達から仕事を肌で学べた幸運を、今改めて噛み締めているそうです。

「ただね、腕のいい職人の大部分は、技術を後輩に伝えないまま、いなくなってしまいました。『もったいないね』
という声をよく聞くでしょう?  その通りですが、では今、本当に良い技術を持った職人は誰かと探しても、あまり
名前が出てこない。私が知らないだけかも知れませんが…。SNS など発作品表の場は多い筈なのに」

カバンやランドセルは伝統工芸でも、芸術品でもなく、需要が少なくなれば技術を持った人の仕事もなくなり、あっという間に技術そのものが途絶えてしまいます。それを目の当たりにしてきた、と長江さんは言います。

「やる気のある若者は意外にいるんですよ。直接うちの事務所に電話をしてきて、毎週末通ってきた若者もいました。そういう若者には、全部革の技術を教えています。授業料なんてとりません。やる気さえあれば、いつでも教えたいと思っています」

「プロを目指すのは、やっぱり厳しいですからね」と、長江さんはまずは本業を持った上で、しっかりと技術を学んでほしいと願っています。

長年、革と対話してきた長江さんの手。革を縫う時の糸の通し方を教えてくれた。

一方で、鞄メーカーなどで働くプロの職人に対しては、全国でも数少ない「皮革製品マイスター」のひとりとして、ランドセルの作り方を教えたり、「鞄・ハンドバッグ・小物技術認定試験」の受験者を対象とした講演や技術講習を行ったりしています。

「この認定試験の1級と2級はかなり難しいのですが、特に最終試験にある『ダレスバッグの制作』が大きな難関です。今の若い人はダレスバッグの名手の仕事など見たことがない人ばかりですから、作れと言われても、なかなかうまく作れないのが実情です」

そこで長江さんは、試験で不合格となってしまった受験生を相手に、改善ポイントを具体的に教えて技術の底上げを図っています。また、受験生からは「ダレスバッグ制作の参考書を作ってほしい」とも熱望されているそうです。

「私だって、これまで色々な人に教えられてここまでやってきたのだから、これらの活動は恩返しみたいなものですね」

ランドセル制作の一線を退いても、鞄業界のあちこちからお呼びがかかり、忙しい毎日を送っている長江さん。そんな彼には、個人的に温めているもう一つの夢があります。

「趣味が詰まった部屋」という、長江さん個人の工房。様々な機械がところ狭しと詰まっている。

「コストを一切度外視して、自分が100%納得のいくダレスバッグを作ってみたいですね。革も選び抜き、金具は無垢の真鍮から自分で削り出して。ダレスバッグにとって、金具は全体の印象を決める命のようなものですから」

ランドセル作りという大きな章を終えた長江さん。しかし、その指先が紡ぎ出す鞄へのロマンと挑戦は、この第二の人生で、また新しく始まったばかりです。

取材・文/関戸俊章 (エデュスタイル)
フリーライター。業界紙記者を経て、小学館ほかの週刊誌、月刊誌で幅広いジャンルの取材・記事執筆を経験。ネットワーク技術やネットメディア運営に造詣が深い。皮革分野に個人的関心が深く、ランドセルナビ開設以前からランドセル関連の情報収集に努め、ランドセル評論家の域に達している。

撮影/五十嵐美弥(本誌)

 

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