文・写真/角谷剛(海外書き人クラブ/米国在住ライター)

ロングビーチ中心部Ocean Blvd。

カリフォルニア州ロングビーチは、ロサンゼルスから気軽に足を延ばせる海辺の観光都市であると同時に、世界でも有数の取扱貨物量を誇る、巨大な貿易港でもある。ロサンゼルス国際空港からは車で約30分、ダウンタウンから地下鉄『LA Metro』のA Lineに乗れば、約1時間の道のりだ。

駅から港に向かえば、レストランやショップが並ぶウォーターフロントに出る。英国の豪華客船「クイーン・メリー号」を眺めたり、海沿いを散策したりと、徒歩でも楽しめる。

なかでもShoreline Villageは、ヨットハーバーを囲むようにレストランや店舗が並ぶロングビーチの人気スポットである。2026年からは改修工事も始まり、ボードウォークや公共スペースなどを更新する計画が進んでいる。

ところが、そのロングビーチ港を挟んだ向こう側に目を向けると、町の様相は一変する。見晴らす限りの貨物コンテナと港湾施設が続いているのだ。なにしろ、ロングビーチ港は米国で2番目に忙しいコンテナ港であり、1位は隣接するロサンゼルス港なのだ。

車ならロングビーチ中心部から10分ほど。現在は港湾施設が広がるターミナル島には、20世紀初頭から第2次世界大戦にかけて、約3000人の日系人が暮らした日本人漁村があった。1941年12月に日本が真珠湾を攻撃したわずか数か月後、1942年2月には、日系人の強制立ち退きが全米規模で始まるのに先立ち、島の住民に退去命令が出され、村は跡形もなく消え去った。

現在のターミナル島には「Terminal Island Japanese Fishing Village Memorial」と呼ばれる小さな記念碑が建っている。ロングビーチ観光のついでに訪ねることができる距離にありながら、ここを訪れる観光客は決して多くない。

Terminal Island Japanese Fishing Village Memorial記念碑。

ターミナル島は湾内の人工島であり、現在は道路で繋がっている。車で訪れる分には市内から陸続きの地域である。大型車が行き交う産業道路の左右に港湾施設や倉庫が並ぶ。

その一角に、小さな鳥居が立っている。鳥居の奥にいるのは、作業着姿の二人の日本人漁師をかたどったブロンズ像だ。鳥居には「大漁」の文字が掲げられ、周囲のパネルにはかつての日本人漁村の様子を説明する写真などが展示されている。それがTerminal Island Japanese Fishing Village Memorialである。

パネルに展示された写真と現在の殺風景な風景とを結びつけるのは難しい。そこには木造住宅や商店が並び、漁船が港に浮かんでいる。子どもたちや漁師、家族の姿も写っている。この場所には確かにひとつの「漁村」が存在していたのである。

日本人がターミナル島に住み始めたのは20世紀初頭のことだった。その中心となったのは和歌山県などから渡ってきた漁師たちである。彼らはカツオやマグロを追って海に出る一方、ロサンゼルス港で発展していった魚の缶詰産業も支えた。

やがて漁師だけでなく、家族もこの地に移り住むようになる。商店ができ、学校がつくられ、寺院や教会、集会所なども整えられた。漁業を中心とした仕事の町であると同時に、子どもが育ち、地域の人々が交流する一つのコミュニティになったのである。

最盛期には約3000人の日系人が暮らし、住民たちはこの場所を「Furusato(ふるさと)」と呼んだ。

記念碑パネルには日本語の詩と翻訳された英文が刻まれている。

沖は黒潮 魚もおどる 父母の辛苦を 偲びつつ、
永遠に称えん いにしえの里

 Terminal Island Japanese Fishing Village Memorialブロンズ像。

しかし、そのコミュニティは1941年12月の太平洋戦争開戦によって壊滅する。

真珠湾攻撃後、ターミナル島の日系人は早くから軍やFBIの監視対象となった。日本人漁師や地域の指導者らが逮捕され、家族から引き離されることもあった。

そして1942年2月、ターミナル島に残った住民にも退去命令が出される。48時間以内に島を離れることを強制した、信じがたいほど苛烈な命令だった。

住民に残された時間はあまりにも短かった。長年暮らした家や商店を手放し、持っていける荷物だけをまとめて島を離れる。しかも、その時点ですでに多くの男性が逮捕されていた。

その後、住民の多くは全米各地の日系米国人収容所へ送られた。過去に紹介したマンザナーもそのひとつである。

関連記事:「米国史上で最も恥ずべき時期の一つ」80年前の教訓を伝えるマンザナー日系米国人強制収容所:https://serai.jp/tour/1025324

ターミナル島で生まれ育ったマス・セギモト氏も12歳のときにマンザナーへ送られた。漁師の父親はノース・ダコタで抑留されており、マンザナーで家族と再会できたのは2年後のことだった。氏がそのころの体験を米国国立公園局(NPS)に口述した記録が同局ウェブサイトで公開(https://www.nps.gov/articles/000/mas-segimoto.htm)されている。

住民が退去させられた後、ターミナル島は無人になり、日本人漁村の建物はすべて取り壊された。「Furusato」と呼ばれた町は、文字通り消えてしまったのである。16歳で終戦を迎え、マンザナー収容所を出たセギモト氏は家族とともにニュージャージー州へ移った。

戦後、ロサンゼルス最大の日本人街リトルトーキョーは再建されたが、ターミナル島にふたたび日本人たちが戻ってくることはなかった。

Terminal Island Japanese Fishing Village Memorial案内標識。

それから長い年月、ターミナル島の日本人漁村は人々の記憶にしか残っていなかった。

だが、近年になって忘れられかけた歴史を語り継ごうとする動きが始まっている。記念碑が建立されたのは2002年のことであるし、2025年にはTuna Streetに残るふたつの建物、Nanka Dry Goods StoreとA. Nakamura Company Grocery Storeが、ロサンゼルス市のHistoric-Cultural Monument(歴史文化記念物)に指定された。

とはいえ、現在のターミナル島が歴史保存地区として丁寧に整備されているとはとうてい言い難い。筆者には記念碑もTuna Streetの建物も放置されているようにしか見えなかったし、自分以外の訪問者はひとりもいなかった。

Tuna Streetと歴史文化記念物指定の建物。

それでも筆者はこうした保存活動が無意味であるとは思わない。言うまでもないことだが、完全に破壊されてしまうよりはずっと良い。かすかに残った記憶を消さないためにも、ひとりでも多くの人にこの場所があることを知ってほしい。

車の運転をしない場合、ターミナル島を訪れるには、ロングビーチの中心部からタクシーやライドシェアを利用するのが現実的な交通手段だ。Uberで確認すると、LA Metroのロングビーチ駅から車で約10分、料金は約12ドルだった。

Terminal Island Japanese Fishing Village Memorial記念碑にあった寄せ書き。

Los Angeles Conservancyウェブサイト内ターミナル島詳細ページ:https://www.laconservancy.org/japanese-american-history-at-terminal-island/

文・写真 角谷剛
日本生まれ米国在住ライター。米国で高校、日本で大学を卒業し、日米両国でIT系会社員生活を25年過ごしたのちに、趣味のスポーツがこうじてコーチ業に転身。日本のメディア多数で執筆。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。

 

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