
2026年10月15日、厚生労働省は75歳以上の後期高齢者の公的医療保険料や窓口負担の算定に、金融所得を反映させることを検討していると報道があった。2029年8月から始める方針とのこと。自治体が株式の配当や譲渡益などを把握し、所得に応じた金額を決めていくという。
大手電子機器メーカーを60歳で定年退職した麻子さん(62歳)は「昔に比べて、生活に必要なお金の負担は増えています。金融資産があっても不安だらけ。定年後、75歳くらいまで働けて、ずっと抱えてきた死の意味について考えられるような仕事を探しました」と語る。
腕がいい大工の父、和裁の達人の母
1963(昭和38)年生まれの麻子さんは、高校卒業後に社会人になる。当時はそれが一般的だったという。
「うちは両親ともに最終学歴は中学校卒業なので、大学に行くという選択肢は全く考えなかったです。私は東京生まれなのですが、鉄道の駅から遠い。周りは商店や工場ばかりで、勤め人の子供などいなかった。とても狭い世界で生きていました。家にはお金もあったし、希望すれば大学に進学できたとは思うんですけど」
父は大工で母は和裁の仕事をしている。両親ともに1941(昭和16)年生まれで、今も健在だという。
「今、二人とも84歳なのに元気。しかも、後輩に頼まれて時々仕事をしているので、手に職があるっていいなと思います。父は15歳のときに親方のところに弟子入りして、“手で覚えて、目で盗め”と鍛えられたとか。掃除に厳しく、今も家にはチリ一つありません」
母は15歳のときに「きれいな着物を作りたい」と和裁の師匠の家に住み込みで働き、技術を身につけた。
「いつでも針を動かしているんですよ。私と弟が小さい頃も、寝かしつけた後に、くけ台(布を伸ばして固定する道具)と針を出し、メガネをかけて縫い始めていました」
麻子さんが生まれ育った昭和40〜50年代は、戦後の経済も安定し、誰もがこぞって一戸建てを建てた時代だ。また、日常着、訪問着、七五三など着物の需要も高かった。
「そうなんです。両親は仕事を断らないので、休みなく働いていました。それも当たり前のように仕事して、グチや泣き言を全く言わない。異常なほど働き者の人がいたから、高度経済成長は達成されたんだと思います。親が腕一本でひたすら働き続ける環境に育つと、勤め人になりたいと思ってしまう」
高校では成績が良かったので、学校の先生から複数の大手企業を勧められた。
「1982(昭和57)年当時、東京にはビデオデッキ、パソコン、ヘッドフォンステレオなどを作る工場があったんです。部品や基板のはんだ付けや検品は、高卒の女子工員がやっていました。朝、家から通える工場にしたのですが、結局は寮に入りました。というのも、工場が24時間体制で、3交代制で仕事をしていたので、自宅から通えなかったのです」
8時間、ほぼ立ちっぱなしの仕事は大変だったが、日本の製造業が「Japan as No.1」と称えられていた時代だ。高品質な製品を世界中に輸出しているという誇りがあったという。
「当時現場では“QC(Quality Control:品質管理)サークル”という活動が行われていました。これは、現場で働く私たちが5〜6人のグループをつくり、製品の不良率を減らし、効率化し、安全性の向上を話し合って改善するのですが、私はこれがすごく好きで、熱心に活動していました。これをやっていたから、定年まで残れたんだと思っています」
【海外工場に技術指導に行く……次のページに続きます】







