
豊臣秀吉の命により、慶長元年(1597)に長崎で処刑された26人のキリシタンのうち、イエズス会士3人を描いた作品。17世紀にスペインで制作された油彩画で、当時の日本と西洋のつながりを伝える貴重な資料。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
はじめに
天正15年(1587)6月19日、豊臣秀吉はキリスト教の宣教師に対し、20日以内に日本から退去するよう命じました。「伴天連追放令(バテレンついほうれい)」と呼ばれる法令です。
「伴天連」とは、ポルトガル語の「パードレ(padre)」に由来する、キリスト教の宣教師を指す言葉です。
織田信長がキリスト教の布教を容認していたのに対し、秀吉はなぜ宣教師の追放を命じたのでしょうか?
しかも、宣教師の退去を命じながら、ポルトガル商船との貿易は認めるという、一見すると矛盾する内容も含まれていました。背景には、九州平定を果たした秀吉が、全国の大名を統制しようとする政治的な思惑もあったと考えられています。
この記事では、「伴天連追放令」について詳しく見ていきましょう。
秀吉はなぜ伴天連追放令を出したのか?
天正15年(1587)、秀吉は九州征伐を行い、島津氏を帰順させました。7月には九州平定を終えて京都へ戻りますが、それに先立つ6月7日、秀吉は筑前国(現在の福岡県北西部)の筥崎に入り、博多周辺に滞在していました。
当時、九州ではキリスト教の布教が進み、キリシタン大名と呼ばれる領主たちも現れていました。宣教師たちは各地で教会を建て、信者を増やしていたのです。
一方、キリスト教への改宗を強制することや、仏教施設を破壊することなどが問題視されていました。
秀吉は、こうした行為が日本の伝統的な宗教秩序を乱すものと考え、宣教師の活動を制限しようとしたとみられます。ただし、追放令を出した理由については諸説あり、宗教上の問題だけで説明することはできません。
大名の領地支配を統制する狙いも…
伴天連追放令が発布された背景には、秀吉の天下統一政策も関係していたと考えられています。当時、各地の大名は自らの領地を支配し、その地域の宗教活動にも大きな影響力を持っていました。
しかし、天下統一を進める秀吉にとって、大名が独自の判断で宗教政策を行うことは、見過ごせない問題でもありました。
『国史大辞典』(吉川弘文館)では、伴天連追放令が大名や給人(主君から知行を与えられた家臣)の領地支配に言及している点にも注目しています。
大名の領地は、あくまでも天下を治める「公儀」の支配のもとにある。秀吉は、宗教政策を通じて、その原則を明確にしようとしたと考えられるのです。
つまり、伴天連追放令は宗教上の命令だけではなく、全国の大名に豊臣政権の命令を従わせるための政策という側面も持っていました。
前日には異なる方針の法令も出されていた
興味深いのは、伴天連追放令が出される前日の天正15年(1587)6月18日にも、キリスト教に関する11か条の法令が出されていたことです。
『新カトリック大事典』(研究社)では、この法令について、キリスト教を既存の宗教の一つとして扱う内容だったと説明しています。

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
ところが翌19日、秀吉は宣教師の国外追放を命じました。
『新カトリック大事典』(研究社)によれば、この間に秀吉はポルトガル船の船長と会見し、船を博多へ回航することを断られたとされています。これを契機に秀吉が態度を変えたという見方もありますが、政策転換の理由がそれだけだったとは断定できません。
いずれにしても、九州平定直後の秀吉が、キリスト教の布教と外国との交易について、難しい判断を迫られていたことがうかがえます。
伴天連追放令の内容とは?
天正15年(1587)6月19日に発布された伴天連追放令は、5か条からなる法令です。その写しは、現在も長崎県平戸市の松浦史料博物館に伝えられています。主な内容は次のとおりです。
日本は「神国」、キリスト教の布教を問題視
第1条では、日本を「神国」と位置づけ、キリスト教を「邪法」として、その布教を不適切なものとしました。また、宣教師らが人々に改宗を強制し、仏教を破壊したことを問題視しています。
宣教師に20日以内の国外退去を命令
第2条では、大名や給人の知行について、天下の法に従うべきことが示されました。そして第3条では、宣教師に対し、20日以内に日本から退去するよう命じています。
これは、日本国内で活動していたキリスト教宣教師に対する、明確な国外追放命令でした。また、キリシタン大名として知られる高山右近は、信仰を捨てなかったために改易されたと伝えられています。

写真:photoAC
南蛮貿易は引き続き認めた
一方、第4条では、ポルトガル商船の来航は貿易のためであるとして、引き続き認めることが示されました。さらに第5条では、仏教を妨げない限り、キリスト教国からの人々の往来を認めています。
つまり秀吉は、宣教師による布教活動を制限する一方、外国との貿易や交流まで禁止したわけではなかったのです。
当時、ポルトガルとの貿易は日本にさまざまな物資をもたらす重要なものでした。秀吉は宗教上の問題と経済的な利益を区別し、貿易は維持しようとしたと考えられます。
その後
伴天連追放令が出されると、宣教師たちは一時、平戸に集結しました。しかし、その後は各地に分散して潜伏し、日本国内での活動を続ける者も少なくありませんでした。
そのため、追放令は十分に実行されなかったと説明するものもあります。ただし、何の影響もなかったわけではありません。
『新カトリック大事典』(研究社)によれば、京都の南蛮寺をはじめとする教会施設が破壊され、イエズス会が支配していた長崎の領地も没収されました。また、『国史大辞典』(吉川弘文館)も、この追放令が日本のイエズス会の布教活動に深刻な影響を与えたことを指摘しています。
宣教師の国外退去は徹底されなかったものの、キリスト教の布教を取り巻く環境は大きく変化したのです。

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
江戸幕府のキリシタン禁制へ
伴天連追放令は、その後の日本の宗教政策にも影響を与えました。慶長18年(1613)、徳川家康の命を受けた僧・金地院崇伝(こんちいん・すうでん)が、キリスト教を排除するための法令を作成します。
この法令は徳川秀忠の名で公布され、江戸幕府のキリシタン禁制の基本となりました。翌慶長19年(1614)には、高山右近を含む多くのキリシタンや宣教師が、マカオやマニラへ追放されています。
秀吉の伴天連追放令は、江戸時代に本格化するキリシタン禁制の先例となったのです。
まとめ
伴天連追放令は、秀吉が天下統一を進める中で、宗教と政治、そして外国との貿易をどのように位置づけようとしたのかを知る重要な出来事です。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、天下人としての権力を強めていく秀吉が、国内の宗教勢力や外国との関係にどのように向き合っていくのか、注目したいところです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
Instagram:@kyoto_monokaki
note:@kyoto_monokaki
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新カトリック大事典』(研究社)
アイキャッチ画像/出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/A27?locale=ja)を加工して作成







