
はじめに-長宗我部信親とはどのような人物だったのか
長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか、演:林裕太)は、四国を制覇した戦国大名・長宗我部元親(演:磯部寛之)の長男です。
父・元親は土佐(現在の高知県)から勢力を広げ、阿波(現在の徳島県)、讃岐(現在の香川県)、伊予(現在の愛媛県)へ進出。天正13年(1585)春には四国をほぼ制圧しました。
しかし、その直後に豊臣秀吉(演:池松壮亮)による四国征伐を受けて降伏。長宗我部家は土佐一国を安堵され、以後は豊臣政権のもとで軍役を負う立場となりました。
そして翌天正14年(1586)、秀吉の命を受けて、元親と信親は九州へ出陣します。そこで待っていたのが、長宗我部家の運命を大きく変える「戸次川(へつぎがわ)の戦い」でした。
信親自身について残る情報は多くありません。しかし、その死が父・元親と長宗我部家のその後に与えた影響は、決して小さなものではありませんでした。
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、四国攻めで父とともに戦う嫡男として描かれます。
長宗我部信親が生きた時代
長宗我部信親が生きた16世紀後半は、各地の戦国大名が領国拡大を競う時代から、織田信長、豊臣秀吉による天下統一へと向かった時代です。
四国でも、土佐の長宗我部元親が急速に勢力を拡大しました。土佐を統一した元親は阿波、讃岐、伊予へ進出し、天正13年(1585)春には四国のほぼ全域をその支配下に置きます。
しかし同じころ、中央では秀吉が天下統一を進めていました。元親の四国制覇は長くは続かず、秀吉の四国征伐によって長宗我部家は土佐一国の大名となります。
さらに秀吉は九州平定に乗り出し、配下となった大名たちに出兵を命じました。
長宗我部信親の生涯と主な出来事
長宗我部信親の生年は不詳、天正14年(1586)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
四国の雄・長宗我部元親の長男
長宗我部信親は、土佐の戦国大名・長宗我部元親の長男として生まれました。
父・元親は永禄3年(1560)に家督を継ぎ、土佐国内の諸豪族を次々に従えます。天正3年(1575)には土佐を統一し、その後は阿波、讃岐、伊予へ進出しました。
信親が生きたのは、長宗我部家が四国最大級の勢力へと伸ばしていく時代でした。

写真:photoAC
父・元親が四国を制覇
元親は四国各地への侵攻を続け、天正10年(1582)には阿波の中富川の戦いで十河存保(そごう・まさやす)を破りました。さらに讃岐の十河城を攻略し、天正13年(1585)春には伊予の河野通直も降伏させます。これによって元親は四国をほぼ制覇しました。
しかし、この勢力拡大は、天下統一を進める豊臣秀吉との対立を招きます。
元親はそれ以前にも、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家、小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康と結び、秀吉に対抗しようとしていました。
秀吉にとって、四国をほぼ支配した元親をそのまま放置することはできませんでした。
秀吉の四国征伐に敗れ、土佐一国へ
天正13年(1585)6月から7月にかけて、秀吉による四国征伐が行われました。長宗我部元親は秀吉の大軍を前に降伏します。

秀吉の四国征伐時、一宮城は長宗我部氏の防衛拠点だった。
写真:photoAC
四国をほぼ制覇していた長宗我部家でしたが、その支配地域は大きく縮小され、元親には土佐一国のみの領有が認められました。ここから長宗我部家は、秀吉と対抗する大名から、豊臣政権のもとで軍役を負う大名へと立場を変えていきます。
信親の運命も、この変化に大きく左右されました。
秀吉の命で父とともに九州へ出陣
翌天正14年(1586)、秀吉は九州で勢力を広げる島津氏への対応を本格化させます。
豊後の大友宗麟(おおとも・そうりん)から援軍を求められた秀吉は、四国勢などを先行して九州へ派遣します。長宗我部元親も秀吉の命を受け、長男・信親とともに豊後へ出兵しました。
長宗我部軍は、仙石秀久(せんごく・ひでひさ)ら豊臣方の軍勢、大友方とともに、豊後へ侵攻してきた島津軍と向き合うことになりました。
戸次川の戦い
天正14年(1586)12月12日、島津家久(しまづ・いえひさ)の軍勢は、豊後国(現在の大分県)大分郡の鶴賀城を攻撃しました。
『日本歴史地名大系』(平凡社)によれば、鶴賀城の城主・利光宗魚はこの攻防で戦死します。
その後、大友義統(おおとも・よしむね)、仙石秀久、長宗我部元親・信親らの軍勢と、島津家久軍が戸次川周辺で激突しました。これが戸次川の戦いです。
戦いは島津軍の勝利に終わり、豊臣・大友方は大敗しました。

写真:photoAC
長宗我部信親は、この敗走の中で命を落とします。『日本歴史地名大系』(平凡社)には、信親は「戸次河原」で戦死したと書かれていました。
なお、『日本人名大辞典』(講談社)の「島津久豊」の項には、島津義久に仕えた島津久豊が、天正14年(1586)の戸次川の戦いで長宗我部信親を討ったと記されています。

写真:photoAC
信親とともに散った土佐の武士たち
戸次川で命を落としたのは、信親だけではありません。
『日本歴史地名大系』(平凡社)の「荒瀬村」の項には、天正14年(1586)、豊後国戸次川で信親とともに戦死した武士として、有瀬彦右衛門の名が記されています。信親に従って土佐から九州へ渡り、そのまま帰ることができなかった家臣たちもいたこともわかります。
長宗我部家にとって戸次川の敗戦は、嫡男を失っただけではなく、家臣団にも犠牲を出した大きな打撃だったのです。
信親の死が父・元親を変える
信親の戦死は、父・元親にも大きな影響を与えました。『日本大百科全書』(小学館)には、信親の死について、「以後の元親の性格は一変した」と書かれています。
元親の具体的な心情まで断定することはできませんが、信親の死後に長宗我部家で後継問題が生じたことから、その影響の大きさを窺い知ることができます。
後継者問題へつながった信親の死
信親を失った元親は、その後、四男の長宗我部盛親を後継者に定めました。しかし、この決定に対して家中では反対も起こったのです。
『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、元親は天正16年(1588)、盛親を後嗣とすることに反対した一族の吉良親実、比江山親興に切腹を命じています。
信親が生きていれば、少なくともこのような形での後継問題は生じなかった可能性が高いでしょう。信親の死は、元親個人だけでなく、長宗我部家の家中秩序そのものを揺るがす出来事となったのです。
まとめ
四国を制した長宗我部家の嫡男でありながら、豊臣政権の成立によって父とともにその軍事体制へ組み込まれ、九州の戦場で命を落とした信親。
そんな信親を失ったことが長宗我部家のその後に大きな影響を残しました。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
アイキャッチ画像/photoAC(一部加工)







