再び登場、足利義昭(演・尾上右近)。(C)NHK

ライターI(以下I):もうすでに退場したと思っていた足利義昭(演・尾上右近)が足利昌山として再登場しました。当欄では、尾上右近さん演じる足利義昭と要潤さん演じる明智光秀が大河ドラマ史上最高水準の「義昭・光秀」と主張していたので、嬉しい事態でした。

編集者A(以下A):足利義昭は、元亀4年(1573)7月に信長(演・小栗旬)によって京都から追放されました。当欄でも何度も言及していますが、実はその後も現職の将軍であり続け、毛利氏の庇護のもと、鞆の浦(現在の広島県福山市)に滞在して、京都復帰のために運動していました。『豊臣兄弟!』劇中では描かれませんでしたが、羽柴秀吉と柴田勝家が対立した際には、両者から足利義昭に連携を求める動きがあったことも知られています。

I:秀吉による九州平定でも足利義昭が動いていたそうですね。

A:ミネルヴァ書房の「ミネルヴァ日本評伝選」『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』(山田康弘著)にこの間の事情が詳しく記述されていますが、秀吉は九州平定のために出陣した際に、備後国赤坂(広島県福山市)に立ち寄り義昭と対面したといいます。しかも、義昭は九州の島津義久に御内書を発給して、実質的な降伏勧告をしていたようです。

I:現職の将軍としての「威光」がまだ残っていたのですね。

A:秀吉の九州平定の旅程は、厳島神社にも参拝するなど、天下人として悠々とした行軍だったようです。

「信長への憎しみという我欲」

I:足利義昭はいつまで将軍だったのでしょう。

A:足利義昭が征夷大将軍を辞したのは、天正16年(1588)1月。秀吉が関白に就任したのは天正13年(1585)ですから、2年ほど「関白秀吉と将軍義昭」が並立していたことになります。教科書などは室町幕府の滅亡を信長から追放された年にしていますが、京都追放から15年後の天正16年に将軍職を辞した年が、名実ともに室町幕府が滅亡した年になります。

I:10代将軍の足利義稙(よしたね)が京都を逃れて15年流浪した末に、再び将軍職に任じられました。そうした故事がありますから、義昭もギリギリまで京都復帰を狙っていたのでしょうね。『豊臣兄弟!』劇中では、主人公の秀長(演・仲野太賀)との対面という形で再登場となりました。

A:秀長に対して「殿下とは何度か会うておるが」といっていたのは前述の通りです。秀吉は義昭と対面して、旧交を温めているのです。それにしても、義昭の京都からの追放の実務を担ったのは秀吉です。ふたりは備後国赤坂で、どのような感情を抱いて対面したのでしょうか。『豊臣兄弟!』でやってくれたら神回になったかもしれないですね。

I:『豊臣兄弟!』で義昭が秀長のもとを訪ねたのは「帝(後陽成天皇)の聚楽第への行幸に随伴した」流れということになっていました。帝の行幸は天正16年(1588)4月ですから、秀長との対面もその時期になるのでしょう。私は「幕府による天下静謐を目指していたはずが、気づけば信長への憎しみという我欲に囚われ、その力の使い道を誤った」という義昭の台詞がジーンときて、涙を禁じえませんでした。

A:思えば、織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのが、天下統一戦線の始まりでした。信長と義昭の蜜月が続いていたら、世の中はどうなっていたでしょうか。きっと浅井長政(演・中島歩)の離反も起こらなかったと思われます。そう思うと感慨もひとしおですね。

I:足利義昭が信長の担ぐ御輿の上に黙って乗っていれば、都を追放されることもなかったんでしょうね。そうなった時、歴史はどのように展開していったか、いろいろな思いが空想されますね。いずれにしても足利義昭の存在が、信長の天下統一にブレーキをかけ続けたというのは否めないですよね。

秀吉の御伽衆になった義昭

A:当欄では、何度も、足利義昭が鞆の浦に「御所」を構えて京都に復帰する意向を持っていたことに触れてきました。当時義昭を支援していたのが毛利輝元。秀吉が播磨の三木城を攻めている際に同時進行で行なわれていた尼子氏残党と毛利との戦いで、秀吉が支援していた山中鹿之助が討たれた際に、鹿之助の首級はわざわざ鞆の浦に運ばれて「将軍足利義昭」による首実検に供されたのです。山中鹿之助の「胴塚」は岡山県高梁市にありますから、わざわざ首を運んで、将軍に献じるほどの権威は残っていたということですね。

I:鞆の浦には今も山中鹿之助の首塚がありますね。歴史というのは人と人との関係の中から紡がれるものです。現代でも嫉妬や不満からくる人間関係のモヤモヤが組織の離合集散につながったりします。信長にモヤモヤした思いを抱いた義昭と信長の関係も興味深いですよね。

A:足利義昭は豊臣秀吉の「御伽衆」として仕え、文禄の役の際には遠く名護屋まで出陣します。亡くなったのは慶長2年(1597)8月。秀吉も義昭の死から1年後に亡くなります。義昭嫡男の義尋(ぎじん)は興福寺大乗院で僧籍に入り、ふたりの息子も僧籍に入ったため、足利将軍家嫡流の血脈は絶えます。江戸時代に喜連川藩として足利の血脈を伝えたのは、鎌倉公方→古河公方→小弓公方家だった足利の末裔です。徳島藩に客分として仕えた足利家(平島家)は足利14代将軍義栄の弟義助(よしすけ)の系統になります。

I:鎌倉幕府に要職をほぼ独占した北条一族が「新時代」の室町幕府では一掃されました。足利家嫡流の血脈を敢えて途絶えさせたのは、厳粛な覇者交代の儀式のような思いがしますね。

●編集者A:書籍編集者。かつて『完本 信長全史』(「ビジュアル版逆説の日本史」)を編集した際に、信長関連の史跡を徹底取材。本業では、11月10日刊行の『後世に伝えたい歴史と文化 鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内』を担当。

●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好き。愛知県出身なので『豊臣兄弟!』を楽しみにしている。神職資格を持っている。

構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり

 

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