
写真:photoAC
はじめに
天正15年(1587)、豊臣秀吉が京都に築いた壮麗な城郭「聚楽第(じゅらくだい)」が完成しました。
聚楽第は、堀や石垣、天守を備えた城でありながら、関白となった秀吉の公邸でもありました。建物には金箔瓦が用いられ、御殿は華やかな装飾で彩られたといいます。
その豪華さは、当時日本を訪れていた宣教師ルイス・フロイスが、ヨーロッパにあっても称賛されるほどの建築だと記したほどでした。
しかし、秀吉はなぜ、大坂城に加えて京都にもこれほど壮大な城を築いたのでしょうか? そこには、武力だけではなく、朝廷の権威も利用して天下統一を進めようとする秀吉の政治的な思惑がありました。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目される聚楽第の完成。その造営の目的と華麗な姿、そしてわずか8年ほどで取り壊されるまでの歴史を紹介します。
秀吉はなぜ京都に聚楽第を造ったのか?
聚楽第の造営が始まったのは、天正14年(1586)2月ごろのことです。その前年、秀吉は関白に就任しました。関白とは、天皇を補佐して政務に関わる朝廷の最高位の職の一つです。
秀吉は織田信長の死後、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経て勢力を拡大し、天正12年(1584)には小牧・長久手の戦いで徳川家康らと対立しました。
さらに、天正13年(1585)には関白に就任し、四国を平定。翌年には家康を臣従させるなど、天下統一へ向けて着実に歩みを進めていました。

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そうした中で秀吉が着目したのが、朝廷のある京都でした。当時、秀吉はすでに大坂城を築いていましたが、関白として政治を行うには、天皇や公家たちのいる京都にも拠点が必要でした。
そこで選ばれたのが、平安京の大内裏跡にあたる「内野(うちの)」という場所です。
かつて天皇の住まいや朝廷の施設が置かれていた一帯に、自らの公邸を築く。そこには、秀吉が関白として朝廷の権威を背景に政治を行う姿勢が表れていました。
しかも聚楽第は、単なる住居ではありません。石垣と堀をめぐらせ、天守や櫓を備えた城郭であり、周囲には諸大名の屋敷が建ち並びました。秀吉は聚楽第を中心に、京都に新たな政治空間をつくり上げようとしたのです。
その名称について、秀吉の祐筆・大村由己が記した『聚楽行幸記』には、「長生不老の楽しみを聚(あつ)むるもの」という意味が込められていると説明されています。
天下人としての栄華を象徴する、実に華やかな名前だといえるでしょう。
聚楽第はどのような建物だったのか?
聚楽第の造営が始まったのは、天正14年(1586)2月ごろでした。
工事には全国の諸大名が動員され、四国や東国から大量の木材や石材などが運び込まれました。翌天正15年(1587)正月には庭園の造営も進み、同年9月13日、秀吉は大坂城から聚楽第へ正式に移ります。
完成した聚楽第は、城郭と御殿を組み合わせた壮大な建築でした。周囲には石垣と堀がめぐらされ、本丸のほか、北ノ丸、西ノ丸、南二ノ丸などが設けられました。本丸には五層の天守がそびえ、櫓や門、塀が建ち並んでいたとされています。

一方、御殿には檜皮葺きの屋根が用いられ、庭には名木や奇石が配されました。さらに、櫓や塀などには金箔瓦が使われ、御殿の内部も豪華な装飾で彩られていたそうです。
当時、日本を訪れていた宣教師ルイス・フロイスは、その壮麗な姿を『日本史』に記しています。建物の内外だけでなく、台所の用具に至るまで金で飾られていることに驚き、その美しさを高く評価しました。
また、聚楽第の周囲には、前田氏、黒田氏、加藤氏、福島氏、蒲生氏ら、豊臣政権の有力武将たちの屋敷が建ち並びました。諸大名はそれぞれの屋敷を豪華に飾り、周辺は華やかな町並みを形成していたといいます。
こうして聚楽第は、秀吉の住まいであると同時に、豊臣政権の政治的な中心地となったのです。
後陽成天皇の行幸で何が行われたのか?
聚楽第の完成の翌年、天正16年(1588)4月14日、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎えました。この行幸は、秀吉が関白としての権威を天下に示すための重要な行事でした。
『日本歴史地名大系』(平凡社)によれば、警護にあたった武士は6000人余り。行列の先頭が聚楽第に到着しても、最後尾はまだ宮中を出ていなかったと伝えられるほど、壮大なものでした。

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
聚楽第では酒宴や管絃、和歌、音曲などが催され、当初3日間の予定だった天皇の滞在は5日間に延長されたといいます。しかし、この行幸は単なる華やかな催しではありませんでした。
4月15日、秀吉は京都市中の地子銀(銀で納められる地税のこと)などを朝廷へ寄進し、近江国(現在の滋賀県)高島郡8000石の所領も公家や寺院関係者に配分しました。
さらに諸大名を集め、朝廷を尊重することと、関白である秀吉の命令に従うことを誓わせ、起請文に連署させました。つまり、秀吉は天皇の行幸という晴れの舞台を利用して、諸大名に豊臣政権への服従を誓わせたのです。
聚楽第は、秀吉が築いた豪華な邸宅であるだけでなく、朝廷の権威を背景に天下統一を進めるための、重要な政治の舞台となりました。
その後
聚楽第は、豊臣政権の栄華を象徴する舞台として使われ続けました。天正19年(1591)12月、秀吉は甥の豊臣秀次に関白職を譲り、聚楽第も与えます。
秀次はここを拠点として政務を行い、天正20年(1592)1月26日には後陽成天皇の再度の行幸を受けました(『兼見卿記』より)。しかし、聚楽第の運命は突然暗転します。
文禄4年(1595)7月、秀次は秀吉によって高野山へ追放され、自害しました。『日本歴史地名大系』(平凡社)によれば、同年7月28日には秀吉が破却の命令を出し、建物は徹底的に取り壊されたといいます。
造営開始からわずか9年、完成から数えても8年ほどのことでした。かつて金箔瓦に彩られ、天皇を迎えた豪華な御殿や天守は、ほとんど姿を消してしまいます。取り壊された建物の一部は伏見城へ移され、寺院にも寄進されたとされています。
現在、大徳寺の唐門や西本願寺の飛雲閣は、聚楽第から移された建物だと伝えられています。ただし、『国史大辞典』(吉川弘文館)や『世界大百科事典』(平凡社)では、これらが聚楽第の遺構であるという確証はなく、解体修理によって伝承に疑問が生じていることが指摘されてもいます。

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
一方、聚楽第が存在した京都の内野周辺では、発掘調査によって金箔瓦や礎石などが発見されています。また、現在も京都市内には、如水町、主計町、福島町など、当時の大名屋敷に由来すると伝えられる町名が残されています。
聚楽第そのものは失われましたが、その痕跡は今も京都の町に息づいているのです。
まとめ
完成からわずか8年ほどで姿を消した聚楽第。その短い歴史には、天下人となった秀吉の絶大な権力と、豊臣政権の栄華、そしてその陰に潜む不安定さが凝縮されているようにも感じられます。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀吉が天下人としての威厳を示す一方で、兄を支えてきた秀長がどのような役割を果たしていくのかにも注目したいところです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
Instagram:@kyoto_monokaki
note:@kyoto_monokaki
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
アイキャッチ画像/photoAC(一部加工)







