
2027年度、文部科学省は、企業と関係省庁が産業界のニーズを反映したリスキリング講座を約600大学へ設置することを目指す支援の仕組みを新設する方針だ。この取り組みは、政府が定める成長戦略の17分野を対象に、企業目線で仕事に役立つ学び直しの内容を検討・開発するものである。定年後のキャリアに備え、学び直しをする人も多い。
啓太さん(63歳)は、「役職定年になった55歳の頃に学び直しを始めました。まさか人生で2つの学士資格を取るとは思わなかった」という。
前編では、インフラ関連の大企業で働き始めた22歳から、40歳で東京勤務になるまでを紹介した。当時、大企業勤務がブランドだったので、女性からモテていたということも。
ここからは55歳からのリスキリングと、定年後の備えについて詳述していく。
【これまでの経緯は前編で】
自分のためだけに頑張るのは辛い
うつから自己流の治療法により、数か月で立ち直った啓太さんは、仕事の最前線に戻った。
「物事には、原因があります。まず、その原因を解明し、改善すればいいだけ。僕のうつは、ストレスによる糖質依存、不規則な生活が引き起こした。だからその原因を徹底的に叩き潰す生活習慣に変えました。復帰して『もう大丈夫です』と上席に言い切ったら、仕事の場に戻してくれましたよ」
そして、啓太さんは会社が求めていた大きな仕事をやり切った。
「僕の場合、完璧を求めるのではなく、動きながら修正していくタイプです。完璧に作り込まないから、法改正や見解の違いが出てきたときに、細かく対応できる。そういう自分になれたのは、うつになったから。あの病気で、自分の完璧主義に気付き、手放すことができたのです」
この実績を評価され、40代後半のときに、社運をかけた大プロジェクトに抜擢される。円形脱毛症を作りながらも最後まで仕事をまっとうした。
「仕事はきつかったですよ。あの頃は、『結婚しておけば良かった』と思いました。辛く厳しい仕事をしているとき、自分のためだけに頑張るのは辛いんです。妻や子供がいれば頑張れたかもしれないのに、僕は家族を作らなかった。だから姉の家に行って、当時大学生の姪っ子や甥っ子にお小遣いをあげましたよ。『啓太おじさんありがとう!』という笑顔に涙してしまい、不思議がられたこともありました」
実家に行く回数も増えた。最も辛かったとき、何かを察した母から「無理をしないで。私にはあなたが一番大切なのだから」と言われた。
「あの言葉には泣きましたね。75歳の母の前で、49歳の僕が子供に戻ってわんわん泣いた。母は何も言わずに背中をさすってくれました。母は肝が据わっている。無言で『頑張れ!』と言っていることが伝わってきました。あれがあったから心が持ち堪えられたのだと思います。それと同時に、母と姉がいなくなったらどうするんだと、恐怖に近い感情が押し寄せてきて、結婚相談所にも行きました。正直、大手勤務だから楽勝だと思っていました。でもずっと独身のアラフィフは警戒されるんですね。仕事も忙しくて婚活の時間もないので、説明だけ聞いて終わりましたが」
以降、会社の業績は回復せず、それまで当たり前のように使っていたものが、少しずつなくなっていった。
「保養所ほか福利厚生の恩恵がなくなり、給料が伸び悩むようになる。知らぬ間に副業も解禁されているようでした。僕は数学が大好きなので、投資の分析も得意です。早いうちから株式投資やベンチャー企業への出資などもやっており、経済面には不安がないので、気にしていませんでしたが、明らかに待遇が悪くなっている」
それに気づいたのは、地方時代に一緒に仕事した仲間が、「子供の学費が払えないから、妻がパートに出た」と言っていたことだった。
「ウチの社員で、そんなことがあるわけがないと思い調べてみたら、かつてに比べて給料が減っていた。そこで、彼には当時始まったばかりの一般NISA(年間の投資上限は100万円、非課税期間は5年)のやり方を教えました。そのとき買った投資信託が、いい成績を叩き出したようで、先日とても感謝されました」
【55歳から、働きながら大学生になる……次のページに続きます】







