はじめに-別所長治とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する別所長治(べっしょ・ながはる、演:下川恭平)は、戦国時代の播磨(現在の兵庫県南部)で三木城を守った武将です。羽柴秀吉(演:池松壮亮)による中国攻めの中で、毛利方に立って長く抗戦した人物として知られています。
特に有名なのが、三木城での2年以上に及ぶ籠城戦です。兵糧攻めによって追い詰められた末、城兵の助命を条件に自害したその最期は、「三木の干殺し」とともに今も語り継がれています。
この記事では、別所長治が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。
『豊臣兄弟!』では、叔父・別所賀相(べっしょ・よしちか、演:田中美央)に説得されて毛利方に寝返る人物として描かれます。

別所長治が生きた時代
別所長治が生きたのは、織田信長が畿内から西国へ勢力を伸ばし、羽柴秀吉がその先鋒として中国地方へ進出していた時代でした。播磨はちょうどその最前線にあたり、織田方、毛利方、そして地元の国衆たちの思惑が複雑に交差する土地でもありました。
長治の属した別所氏は、播磨守護・赤松氏の一族で、三木城を拠点として東播磨に大きな勢力を持っていました。
そのため、信長が中国征伐を進める上で、別所長治が味方になるか敵になるかは非常に大きな意味を持っていたのです。そんな中、長治は最終的に秀吉と対立する道を選びます。
別所長治の生涯と主な出来事
別所長治の生年は不詳です。天正8年(1580)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
播磨の有力国衆・別所氏の当主
別所長治の父は長勝、通称は小三郎です。別所氏は赤松氏の一族で、先祖が播磨の別所に住んだことからその名を称したとされます。
三木城を本拠としたのは祖父・重治の代で、そこから東播磨一帯に勢力を広げました。しかし、父・長勝が39歳の若さで病死したため、長治は13歳の若さで当主になります。
信長上洛には加勢していた
別所氏は、はじめから織田信長と対立していたわけではありません。永禄11年(1568)9月、足利義昭と織田信長の上洛の際には加勢し、叔父の別所重棟(べっしょ・しげむね)は150人を率いて尼崎へ迎えに出て、天王寺に陣を張りました。このとき、義昭からは感状を受けたといわれています。
長治自身も、天正3年(1575)10月には信長と謁見し、翌天正4年(1576)年頭には信長への挨拶を行っています。

なぜ秀吉に背いたのか?
天正5年(1577)10月、織田信長は羽柴秀吉に中国地方の毛利攻めを命じます。この時、別所長治も織田方について秀吉に協力することを約束しました。
長治が大きく動くのは、天正6年(1578)のこと。長治は秀吉と対立し、毛利氏と結びます。
その理由については、いくつかの見方があります。『国史大辞典』(吉川弘文館)では、もともと毛利輝元と交わりがあったことを挙げています。
このほか信長は当初、中国征伐において長治を先鋒にしようと考えていたのに、若年であることから羽柴秀吉を先鋒に改めたため、長治が怒って反旗を翻したという説にも触れています。

三木城に立てこもり、秀吉と対決する
天正6年(1578)2月、秀吉は播磨に入り、書写山圓教寺に陣を置きました。播磨の国衆の多くが秀吉に従う中で、長治は三木城に立てこもります。
三木城は東播磨の中心的な城であり、地勢的にも守りやすい城でした。一方、秀吉にとっては、播磨平定のためにどうしても落とさなければならない拠点だったのです。

このとき別所方は、毛利氏や本願寺の支援を受け、さらに摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)で謀反を起こした荒木村重とも呼応しました。
この年の10月、荒木村重が信長に背いた際、別所氏は平井山の付城にあった秀吉の本陣を襲います。しかし、羽柴秀長の部隊に敗れ、長治の弟・治定らが討死しました。
「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めへ
別所方は毛利方の援助を受けて抵抗しましたが、秀吉は付城を築き、補給路を断つことで三木城を孤立させていきました。
天正7年(1579)4月には、織田信忠が三木城南側に付城6か所とそれらを連結する土塁線を構築し、兵糧の搬入を遮断しました。さらに毛利方は魚住を経由して兵糧を運び込もうとしますが、これも秀吉方によって阻まれます。
こうして秀吉は包囲陣地をさらに狭め、三木城を徹底的に孤立させました。これがのちに「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めです。
正面からの力攻めではなく、時間をかけて相手の命脈を絶つやり方は、兵力を喪失せず、秀吉の効率的な戦い方をよく示しています。

天正8年、家臣の助命を条件に自害
兵糧攻めの末、長治は2年余にわたって秀吉に抗しましたが、ついに城中の食糧が尽きました。餓死者は数千人出たともいわれ、籠城した兵士は壁土の藁(わら)を食べたという言い伝えもあります。
天正8年(1580)正月、長治は浅野長政を介して降伏を申し出ます。そして、籠城中の家臣の助命を条件に、長治は一族とともに1月17日自決しました。

辞世ににじむ覚悟
長治の辞世として伝わるのが、
「今はただ 恨みもあらず 諸人(もろびと)の いのちにかはる わが身と思へば」
という一首です。
自分が死ぬことで多くの命が助かるのなら、それでいい。そうした思いがにじむ歌として、今もよく知られています。

まとめ
秀吉にとって三木落城は播磨平定の大きな節目でしたが、別所長治の側から見れば、それは東播磨の名族が時代の大きな流れにのみ込まれていった瞬間でもありました。
戦国時代の地方武将の苦悩と覚悟を知る上で、別所長治は忘れられない人物です。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
三木市役所ホームページ
三木城跡内案内板











