東京藝術大学。

「美術家の宗教は美術宗あり」

狩野芳崖 明治21年(1888)11月5日没。60歳

東京・上野の東京藝術大学には、いくつもの名画が残されている。明治21年(1888)制作の『悲母観音』はその代表的なものだ。

左手に柳の枝を持った観音が中空に浮かんでいる。その御姿から、三十三観音のひとつで病苦救済を本願とする楊柳観音と知れる。観音の足もとに嬰児がいる。嬰児は観音の右手の水晶の瓶から落とされた浄水により、今まさに命を与えられ地上に降りていくかのよう――。近代日本画の出発点に位置づけられる歴史的作品である。

作者は狩野芳崖。伝統画に“西洋”を取り入れた革新者であり、「近代日本画の父」ともいわれる。この絵は、芳崖の60年8か月余の生涯で、最後に描かれた作品であった。

「師は絵を知りたまわず」とつぶやく大物ぶり

狩野芳崖は文政11年(1828)、長門国豊浦郡(現・山口県下関市)の生まれ。幼名は幸太郎。父・狩野晴皐は長府藩(毛利家支藩5万石)の御用絵師だった。藩校に通いながら父に画技を仕込まれた。数え19歳のとき藩費留学生として江戸に上り、室町時代からつづく狩野派の本流を継承する木挽町狩野家の勝川院雅信に入門した。

が、その強い個性は、狩野派の伝統的枠組みには、なかなかおさまりきらない。師から破門されかかったりしても、「師は絵を知りたまわず」と同門につぶやく大物ぶり。「探幽・常信の糟粕(かす)をなめず」とも公言して憚らなかった。狩野探幽、狩野常信といえば狩野派の大先達であり、その真似事では終わらないというのだから、度外れた自負心と心意気が窺える。

実際、ひとたび筆をとれば「画中の人物・動物、画布の中より脱出するの感あり」と評されるほどの腕前で、23歳ころには画塾の塾頭となった。

25歳で修養を終えて帰郷すると、藩から30石を供される御用絵師として独立。豊浦の医師・田原俊貞の長女よしと結婚して家庭も持った。その後、郷里と江戸を行き来しながら活躍し、万延元年(1860)には焼失した江戸城本丸の再建に伴う障壁画制作にも参加している。

「芳崖」の号を使いはじめたのは、元治元年(1864)頃からという。由来は、菩提寺である覚苑寺の僧侶にして、禅の師でもある霖龍如澤和尚の「禅の極致は法に入りて法の外に出ること」という教えだった。「決まったやり方の外に出る」という意をこめ、はじめ「法外」の号を名乗ろうとしたが、字面が雅びに欠けるということで、「芳崖」の字を当てることとした。

慶応3年(1867)、父が逝去。芳崖は40歳で家督を継いだ。ところが、明治維新と廃藩置県により幕藩体制は瓦解する。

御用絵師としての身分も禄も失って、芳崖は家屋敷や金禄公債を売り払い養蚕業をはじめるが失敗。豪農や庄屋の屋敷に出向いて襖や杉戸に絵を描いたり、文具店を営んだりして生計を立てたという。

フェノロサとの出会いで新境地を拓く

明治10年(1877)、50歳の芳崖は上京を決意する。しかし、東京でも画業で暮らしは立たず、荒物屋を開きながら妻よしは機織りにいそしむ日々。砲兵工廠図案課の採用試験にも落ち、貿易商のもとで陶器や漆器の下絵を描いて日銭を稼ぎ糊口を凌いだ。それでも子息の養育には慈愛を注ぎ、慶応義塾へ通わせて教育を施した。

芳崖が肺を患ったのもこの辛酸時代で、以来、滋養強壮のためニンニクを好んで食べるようになった。後年、坪内逍遥の居宅へ風呂敷ひと包のニンニクを土産に持参し、逍遥を辟易させたとの逸話も残る。元来が磊落な放談家。無類の謡曲好きとしても知られ、興が乗ると往来の真ん中でも謡いながら一曲を舞ったという。

明治12年(1879)、かつての画塾の朋輩である橋本雅邦の紹介で島津家雇となったことから、ようやく暮らしは少し落ち着いた。芳崖と岡倉天心との間に面識ができたのもこのころ、とする説もある。

岡倉天心は明治13年(1880)に『美術論』を卒業論文として東京大学を卒業しているが、在学中から、お雇い外国人教師アーネスト・フェノロサの講義を聴くかたわら、日本美術に興味を抱きはじめたフェノロサのために通訳をつとめ、資料調べも手伝っていた。フェノロサはハーバード大学哲学科出身で東大でも哲学や政治学を講じていたのだが、ハーバード大卒業後にボストン美術館付属の美術学校に通った履歴を持ち、もともと美術への造詣と関心が深かった。天心は東大卒業後、文部省に出仕。はじめ音楽取調掛を命じられるが、まもなく専門学務局勤務となり日本の美術行政の構築に携わっていく。

明治15年(1882)10月、第1回内国絵画共進会が催された。芳崖は8点の絵画を出品するが、無賞に終わった。狩野派の中でも守旧派とされる者の評価が、審査に影響したらしかった。のちにフェノロサが友人の美術蒐集家チャールズ・ラング・フリーア宛てに出した書簡によれば、このとき審査顧問をつとめていたフェノロサは芳崖の作品を「本会最大の傑作」と激賞し、これがフェノロサと芳崖の交流につながったという。

一時期は、フェノロサが給金を払って芳崖を雇用し、西洋の画材や助言を与えながら、新時代の日本画を創出すべく共に奮闘したとも伝えられる。フェノロサと天心が主導して開催した鑑画会で芳崖は受賞を重ねていくが、とりわけ鑑画会第2回大会で褒状を受賞した『仁王捉鬼図』は特筆すべき作品。西欧の合成無機顔料を積極的に用いて、オレンジ、緑、ピンク、金、青などのカラフルな色彩が、グラデーションをつけて繊細に描かれている。

明治16年(1883)11月、芳崖は第2回パリ日本美術縦覧会の出品作家に指定された。おそらく、フェノロサや天心の後押しがあったのだろう。このとき芳崖が出品した2作品のうちの1点が、『悲母観音』の基礎となる作品で、現在、フリーア美術館に所蔵されている『観音』だった。少し前の初孫の誕生がもたらした感慨が、芳崖にこの作品を構想させたらしい。

明治19年(1886)4月、芳崖は文部省から「大阪府下奈良地方出張申付」という辞令を受け取った。芳崖はこのころ、文部省学務局に新設された図画取調掛の雇員となっていた。同行者は図画取調掛主幹の岡倉天心、フェノロサら。ひと月ほど奈良の古社寺をまわって仏像や建築物を調査した。

芳崖は従前は墨で行なっていた写生を鉛筆画によるスケッチとし、帰京後、『奈良官遊地取』全12巻をまとめた。とりわけ観音像への関心は高かったようで、法隆寺夢殿の観音菩薩立像や聖林寺の十一面観音立像をはじめ、薬師寺、元興寺、法華寺、法輪寺、岡寺などで、濃やかにその像容を写しとっている。

美に殉じ、落款を捺す前に力尽きる

明治20年(1887)春ころ、芳崖は『悲母観音』の制作を思い立つ。

全体の構図は3年前にパリに出品した『観音』を下敷きとしながら、観音の面貌表現は奈良でのスケッチを投影し、男相から優美な女相へと変容させた。

この頃、芳崖の妻よしが病に臥せていたから、『悲母観音』の制作には、病妻の平癒祈願という思念も込められていたのだろう。芳崖はよしを“観音様”と呼んでいた。のちに門弟の岡不崩に語ったという、こんな言葉も残されている。

《小共は母親の感化により善くも悪しくもなる夫は妻女の為めにいかやうにも左右せらるゝものである。女史はちやうど観音様のやうである。(略)わしは仕合せにも観音様(細君を云ふ)が能(よ)くして呉れたからなあ》(岡不崩『しのぶ草』)

制作途中の明治20年(1887)7月10日、よしは亡くなる。芳崖は悲嘆を胸に絵筆を握りつづけた。芳崖自身の体も摩耗しきっていた。肺疾患からくる咳に苦しみつつ、息を殺すように仕上げの金砂を蒔く。完成目前、最後の金砂子の蒔き付けを僚友の橋本雅邦にゆだね、落款を捺すこともなく、明治21(1888)年11月5日絶息(満60歳)。『悲母観音』はまさに芳崖の絶筆であり、畢生の大作だったのである。

岡倉天心は、雑誌『國華』第2号(明治22年11月)に追悼文『狩野芳崖』を寄せ、生命への讃美と慈愛を感じさせるこの作品を、

《翁平生ノ心事此一幅画中ニ留存スルモノナランカ(略)特ニ意匠ノ高尚秀絶ニ至テハ技、道ニ進ムモノニシテ遙カニ古人ヲ凌駕セントス》

と称える一方で、芳崖が生前語っていたこんな言葉を紹介している。

《人生各自独立の宗教なかるべからず。美術家の宗教は美術宗あり、復(ま)た何ぞ他に之を求めんや》

この言葉からは、生涯をかけて求道的な精神で美術に向き合った芳崖の生きざまが伝わってくる。その死もまた、美に殉じたものだったと言えるのかもしれない。

芳崖の死から3か月後の明治22年(1889)2月、東京美術学校が開校した。芳崖はその教官となることが内定していたが、寿命がそれを許さなかったのである。法号「東光院臥龍芳崖居士」。墓は東京・谷中の長安寺にあり、妻よしとともに眠っている。

(主な参考文献)野地耕一郎編『狩野芳崖と四天王』(求龍堂)、辻惟雄編著『幕末・明治の画家たち』(ぺりかん社)、古田亮監修『別冊太陽 近代日本の画家たち』(平凡社)、『明治文学全集38 岡倉天心』(筑摩書房)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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