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文/印南敦史

八ヶ岳南麓の小さな家に居を移して三年目。
最初は一年間だけいるつもりで横浜から猫を連れてやって来たのが、気がついたらすでに三度目の越冬をしてしまった。
今までも何度か引越しをしてきたが、どこでも最初の二年はその地でのアウェイ感がなかなかぬぐえない。ただ、これが三年目ともなると、もうずいぶん前からその地に住んでいるような、リラックスした居心地のよさを感じているのだから不思議だ。住めば都か。(本書「まえがき」より引用)

『五十八歳、山の家で猫と暮らす』(平野恵理子 著、亜紀書房)は、このような書き出しから始まる。ご存知の方も多いだろうが、山歩きや暮らしに関する多くの著作を持つイラストレーター、エッセイストである。

いま暮らしているその山荘は、40年近く前に両親が購入したもの。つまり若いころから親しんだ家だというわけだが、一年を通して過ごすことはなかったのだそうだ。

しかし、「この家で一年間過ごして四季の一巡を見届けてみたい」と思って移り住んでみたところ、それだけの時間が経過していたのだという。

果たして自分はここで何をしているのだろうか。とくべつなことは何もしていない。ただ、暮らしているだけだ。ご飯を作って食べ、仕事をして、掃除洗濯をし、猫の世話をして寝る。その繰り返し。ちょっと庭仕事もするけれど、それ以外は横浜に住んでいたときと基本的には大して変わらない。 (本書106ページより抜粋)

それでも、横浜と八ヶ岳では環境が圧倒的に異なるはずだ。環境が変われば、意識もまた大きく変わるのではないだろうか? 食事や仕事以外に、山の暮らしならではの用事もできるだろうし、それが楽しみになっていくということも考えられる。

また、「ちょっとする」という庭仕事のように、山だからこそしなければならないことだって増えていくはずだ。

だが、そうした変化は町中で引っ越したとしても起こりうることだと著者は主張する。山村に住むからこそできるようなことは、とくになにもしていないと。

だとすれば、その気軽さ、普通さそのものが、山の暮らしの醍醐味だと考えることもできるのかもしれない。事実、気構えのようなものを持って移住に臨んだというわけではなさそうだ。

しばらく山に住んでみようか、と考えてから、あまり時を経ずに移動した。行ったことのない場所ではない。もう三十年以上行き来して様子のわかっているところだ。家もそのまま使えるし、いま住んでいる家の荷物をすべて引き揚げなければならないわけでもない。仕事の道具、資料、画材一式と、さしあたっての身の周りのもの、どうしても使いたい一軍の食器の一部を梱包し、引っ越しした。横浜の家など、夜逃げしたあとの家同様、もぬけの殻で、こちらの家も、帰ればいつでも使える状態ではある。 (本書107ページより抜粋)

つまり重要なのは、そんな気楽さだ。田舎暮らしをしようということになると、「あれもやりたい、これもやりたい」「あれを用意しなければならない、これを整理しなければならない」と、必要以上に気負ってしまいがちだ。そして、それが失敗の原因になることもある。

けれど、本来であればこのくらいの気持ちでちょうどいいのだ。事実、著者も「気がつけば、こんなに身軽な状態は今までなかった」と感想を述べている。

そもそも仕事の観点からいえば、横浜に移った時点で「遠隔地」に移ったことになっていたのだという。だとすれば、場所が八ヶ岳になったとしてもさほど問題はないことになる。

冬の、天国にいるような陽の光。家の奥深くまで陽がはいる朝、部屋の中に光があふれて、それだけで幸福感に包まれる。 ( 本書113ページより抜粋)

この、「それだけ」という部分がなにより重要なのかもしれない。

もちろん、所有する本をすべて持って来られなかったことなど、“悩ましい”こともいくつかはあるようだ。だが、どのような状況でどこへ行ったとしても、そうした思いはそれなりに残るものである。

それより大切なのは、いままでとは違う暮らしをしていくなかで、いままで見えなかったものを見て、気づかなかったことを知り、そこに新たな幸せを見出すことではないだろうか?

都会で身近にあったものを移動して、同じような生活をすることに意味があるのではなく、「そこにしかないもの」の価値を知り、愛でることこそが重要なのではないかということだ。

たとえば著者の場合、八ヶ岳に住むようになってから小鳥が気になり出して、だんだん小鳥のことが知りたくなってきたそうだ。

毎朝、空の餌箱にヒマワリの種を補充する。餌箱の支度をしていると、あちこちでシジュウカラの鳴き交わす声が聞こえる。みんな近くに来て待ち構えているのだ。蓋つきバケツに入ったヒマワリの種をカップにすくってザーと餌箱に入れると、その音で小鳥たちがさらに近くへ集まってくる。「ネエさん今朝は遅いよ」「はやくはやく」と言われているみたいだ。(本書129ページより抜粋)

こうした記述からもわかるとおり、本書で描かれているのは“日常”そのものだ。横浜に横浜の日常があったように、八ヶ岳には八ヶ岳の日常がある。ただ、それだけ。だからこそ読者は本書の中から、“形にはできないけれど大切ななにか”を感じ取ることができるのだろう。

『五十八歳、山の家で猫と暮らす』

平野恵理子 著
亜紀書房
1,600円(税別)
発売日 2020年3月

文/印南敦史 作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)などがある。新刊は『書評の仕事』 (ワニブックスPLUS新書)。2020年6月、「日本一ネット」から「書籍執筆数日本一」と認定される。

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