芦屋市谷崎潤一郎記念館。
(写真:photoAC)

「我といふ人の心は われより外に知る人はなし」

昭和40年(1965)7月30日没。79歳。

まもなく、今年のノーベル賞受賞者が発表される時節となった。そこで思い起こす、ひとつの挿話がある――。

昭和39年(1964)10月、ヨーロッパから喜ばしいニュースが飛び込んできた。フランスのAFP通信が「谷崎潤一郎にノーベル文学賞」と報じたのである。78歳となっていた文豪に喜びの言葉を聞こうと、多くの記者が湯河原(神奈川県)の谷崎邸へ押し寄せた。が、残念なことに誤報であることが判明した。どうも、当時の選考委員会では、選考対象に地理的な制約があったらしい。

翌年7月、谷崎は没する。川端康成に日本初のノーベル文学賞が授与されるのは、その3年後、昭和43年(1968)10月だった。
日本文学研究者で谷崎や川端と親交のあったドナルド・キーンが、その著『思い出の作家たち』にこう綴っている。
《候補者を地理的に制御しているノーベル文学賞の選考対象に、ようやく日本の番がまわってきた時、谷崎はすでに亡くなっていた。あの偉大な作家があの賞をついに得ずじまいだったのは嘆かわしい。川端がじゅうぶん受賞に値することは言うまでもないとしても》

「我といふ人の心はたゝひとり われより外に知る人はなし」
そんな言葉そのままに、個性的な生き方を土壌に、独自の色合いの花を咲かせつづけた谷崎の文学世界は、海外でも早くから高い評価を得ていたのである。

「どんな難題でも御出し下さいまし…」

兵庫県芦屋市に谷崎潤一郎記念館がある。訪れると、谷崎遺愛の絢爛豪華な長襦袢と対面することができる。雑誌取材の写真撮影のため、記念館の一隅に再現された谷崎の書斎、中央に据えた衣桁にかけると、その背に染め抜かれた雲上の雷神が、いまにも叫びを上げて動き出さんばかりの迫力を見せた。

反自然主義の旗手として、『刺青』『春琴抄』など耽美的な物語の数々を紡ぎ出す一方で、日本の伝統文化や古典文学への回帰を示した谷崎は、当然、自らの身に纏う着物にも、雅びやかな趣味を貫いていた。結城の袷に唐桟の羽織で芝居見物に出かけるなぞは、その最たるもの。そしてついには、人目にはけっしてさらされることのない羽織の裏地や長襦袢にまで、凝りに凝ったのである。

背に雷神が躍るこの羽二重地の長襦袢には、さらなる曰く因縁がある。谷崎の三人目の妻となる松子夫人の父から譲り受けたものであった、というのだ。

谷崎といえば、佐藤春夫との間のいわゆる「細君譲渡事件」でも物議をかもしたが、松子への思慕の度合いも並外れたものであった。その想いは作家の創作にまで大きな影響を及ぼしたようで、まだ結婚前の松子へこんな手紙を書き送っている。

《はじめてお目にかゝりました日から一生御寮人様に御仕へ申すことが出来ましたらたとひそのために身を亡ぼしてもそれが私には無上の幸福でございます。(略)実は去年の「盲目物語」なども始終御寮人様の事を念頭に置き自分は盲目の按摩のつもりで書きました 今後御寮人様の御蔭にて私の芸術の境地はきつと豊富になることゝ存じます たとひ離れてをりましても御寮人様のことを思つてをりましたらそれで私には無限の創作力が涌いて参ります
しかし誤解遊ばしては困ります 私に取りましては芸術のための御寮人様ではなく御寮人様のための芸術でございます》(昭和7年9月2日付)

さらに、別の手紙文中に《どんな難題でも御出し下さいまし、きつと/\御気に入りますやうに御奉公》という一節まで読むに至ると、『春琴抄』や『痴人の愛』『鍵』にも通ずる倒錯した愛とエロティシズムの世界が垣間見える気がする。

そんな谷崎は、花なら桜を愛した。小説『細雪』に描かれる次の如き記述は、そのまま谷崎の心情であったろう。
《古今集の昔から、何百首何十首となくある桜の花に関する歌、(略)年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してたゞの言葉の上の「風流がり」ではないことが、わが身に沁みて分るやうになつた》

とくに東京から関西へ移り住み、松子と結婚した48歳のころからは、毎年、京都の桜を「巡り観る」ようにして愛でた。祇園の夜桜を見物して、麸屋町あたりの旅宿に泊まって、翌朝は嵯峨から嵐山を散策しながら花見。午後は市中に戻ってきて、まさに春の日の暮れかかろうとする黄昏時を選んで、平安神宮に参詣し境内に咲き乱れる桜花に酔いしれたのである。

花を愛でる谷崎の傍らには、松子夫人とその姉妹が寄り添っていることが多かった。それはまさに『細雪』の一情景のよう。平安神宮を花巡りの終着地とするのは、その神苑の花が洛中で最も美しく見事で、京洛の春を代表するものだと、谷崎が確信していたからだった。だから、愛(め)で方も通り一遍ではない。『細雪』に谷崎は綴る。

《池の汀、橋の袂、路の曲り角、廻廊の軒先、等にある殆ど一つ一つの桜樹の前に立ち止つて嘆息し、限りなき愛着の情を遣るのである》

美味しいもの好きの引っ越し魔

谷崎は、美食探求の健啖家としても知られた。
あるとき、同好の友・古川緑波と一緒に散々に飲み食いし、その満腹の箸を置くか置かぬかに「明日僕は〇〇を食べるから」と呟き、さすがの緑波も白旗を上げたという。
自身で包丁を握らずとも、自分で考える料理の巧みなことは相当なもので、鯛ひとつでも刺身、あら煮、頭の山椒焼、京の蕪との炊き合わせ、鍋物、と想をめぐらす。山芋のすりおろしを焼き海苔に薄くのばして油で揚げ、生醤油を少量の酒で割ったものをつけて焙り、鰻の蒲焼そっくりの「野菜の蒲焼」をつくらせたり、鰹の薄切りの間に、味噌に葱を刻んで交ぜたものを挟み、油で炒めるという新メニューを考案したりした。

東京に出かけるときはめぐるコースが決まっていて、千疋屋の果物、開新堂のケーキ、ケテルのパンとソーセージ類、空也の果子などを買う。夕食は洋なら小川軒、和なら浜作か辻留といった具合。家での会合で大勢のお客があるときには、辻留に出張料理を頼むのが習わしだったという。

家での食事時間は極めて正確で、5分と遅れないように、家中の者が気をつかっていた。ケテルのパンと野菜ジュース、色とりどりの野菜サラダ、プレーンやチーズのオムレツの朝食を終えると、魚屋に電話をかけ、その日の鮮度のいいものを聞き、自ら献立を考案するのが日課だった。昼食、三時のおやつ、夕食とも、主な御馳走らしいものは自分で決めた。
注文通りのものを出さなかったり、料理の味付けが口に合わないと、期待しているだけに機嫌をそこねるので、細かい心配りが必要だったという。
松子夫人はこうも記す。
《空腹時の機嫌の悪いのは、人間誰しもと言えるであろうが、谷崎のは甚だしく、それも今から食事を始めようと言う時に、訪問客があると、相手が誰であろうと自分でお玄関に出て、「今から食事ですよ、お帰り下さい。」と言った強い調子で、私などただはらはらする許りで取りなしようも知らなかった》(『蘆辺の夢』)

谷崎は、いわゆる引っ越し魔でもあった。大きく言えば、東京・日本橋に生まれ、関東大震災直後に関西へ移住、戦時中の岡山疎開を経て京都に戻り、晩年は熱海湘南方面に居を構えたわけだが、生涯の引っ越し回数は40回余り。この引っ越しを活力源とするかのように、旺盛に創作に取り組み続けた。《常に書けなくなれば死ぬと言い、死と向い合って、死の際まで百年生きても書き切れないほど書きたいことがあると燃えていた人》とは、のちに松子夫人が随筆『蘆辺の夢』に記す文豪の姿である。

最後の引っ越しは、昭和39年(1964)7月。湯河原の、相模湾を一望する、蜜柑畑に囲まれた斜面高台に落成した新居に移り、「湘碧山房」と名づけた。引っ越しから2週間後には、78歳の誕生日を迎える。冒頭に紹介したノーベル賞受賞の誤報事件は、この秋に起こったわけだ。

夫婦で墓石用の自然石を探す

年齢とともに、谷崎の体には衰えや変調が出ていた。
右手の麻痺に襲われたのは72歳の頃。それまで毛筆書きで枡目を埋めていた原稿が、口述筆記に切り替わった。74歳の秋には心臓発作を起こし、東大附属病院の上田内科に入院。「湘碧山房」に引き移った年末には、前立腺肥大による尿閉を起こした。

当初、手術は嫌がっていたが、同じ手術を受けた旧友から話を聞いて決断し、年明け、東京医科歯科大附属病院で手術を受けた。この頃の谷崎は「死にそうな気がするよ」と寂しげな表情を見せるかと思うと、「時に死ぬのも楽しいと思うこともあるよ」と微笑んでいたという。

『瘋癲老人日記』には、こんな記述も読める。

《老年ニナルト誰デモサウカモ知レナイガ、近頃予ハ一日トシテ自分ノ死ノコトヲ考ヘナイ日ハナイ。(略)「今日己ハ死ヌンヂヤナイカナ」ト、日ニ二三度ハ考ヘル。ソレハ必ズシモ恐怖ヲ伴ハナイ。若イ時ハ非常ナ恐怖ヲ伴ツタガ、今デハソレガ幾分楽シクサヘアル。ソノ代リ、自分ノ死ヌ時ヤ死後ノ光景ヲ微ニ入リ細ニ亙ツテ空想スル。告別式ハ青山斎場ナドヘ持ツテ行カナイデ、コノ家ノ庭ニ面シタ十畳ノ間ニ棺ヲ安置スル。サウスレバ会葬者ハ表門カラ中門ヲ通ツテ飛石伝ヒニ焼香ニ来ルノニ便利デアル。笙篳篥ノヤウナモノヲ鳴ラサレルノハ迷惑ダケレドモ、誰カ一人、富山清琴ノヤウナ人ニ「残月」ヲ弾イテ貰フ。
  磯辺ノ松ニ葉隠レテ、沖ノ方ヘト入ル月ノ、
  光ヤ夢ノ世ヲ早ウ、覚メテ真如ノ明ラケキ、月ノ都ニ住ムヤラン。……》

地唄『残月』については、谷崎はことのほか思い入れが深く、随筆『雪』にも、《自分が死んだ時は、霊前に於いて他の如何なる供養をして貰ふよりも、すぐれた演奏家に頼んで此の曲を弾いて貰ひたいと思ふ》とも書いている。

昭和40年(1965)7月24日、谷崎は79歳の誕生日を迎え、自宅でその祝いがなされた。
前年秋頃から食欲の衰えていた谷崎が、この日は久方ぶりに大いに御馳走を食べワインを飲んだ。ところがその反動か、翌日から体調が悪くなり、26日に近所の医師・井出隆夫の来診を受けた。腎不全の兆候が出ていた。

28日には前立腺肥大の手術の際の主治医だった落合医師が、29日には東大病院の上田医師が東京から往診した。30日の朝方、井出が再び来診。診察を終え、しばらく様子を見守ったあと、「この分なら今日は心配なさそうですね」と立ち上がり、松子夫人は玄関まで見送った。夫人が谷崎のところに戻ると、谷崎はつけていた酸素マスクを突然にはねのけた。狭心症の発作を起こしたらしかった。松子は慌てて医師を呼び戻した。が、すでに手遅れだった。心臓マッサージを施しても蘇生せず、午前7時35分、死亡が確認された。死因は腎不全及び心不全(冠動脈硬化症)だった。

このとき、相模湾に照り映えた朝の陽光が眩いほどに室内に射し込み、光の海のように谷崎の亡骸を包んだ。「湘碧山房」は、あたかも、この日の文豪のために用意された厳粛な死に場所であったかのようだった。松子夫人は綴る。

《思ひかへせば此の家は、あたかも谷崎の死を迎へる為の厳粛な儀式であるかのやうな一年余の短い日の寝起と仕事場であつた。谷崎自身、死と対ひ合つての日常は傍にゐてもひし/\と感じられた》(『湘竹居追想』)
書斎の机の上には、新たな作品の創作メモが残されていた。死後、絶筆となる『にくまれ口』が『婦人公論』に、『七十九歳の春』が『中央公論』に、それぞれ発表されたが、これを筆ならしとして、本格的な長篇作品に挑むつもりだったのだという。

遺骨はかねてから準備の、京都市左京区鹿ケ谷の法然院の墓所に埋葬された。そこには自然石に「寂」と「空」という谷崎自筆の文字を刻んだふたつの墓石が並び、その中央に、谷崎が愛してやまなかった平安神宮ゆかりの紅枝垂の桜の樹が1本植えられている。

墓石の自然石は、逝去の前年の秋、石屋の主人の案内で、夫婦して、鴨川堤の葵橋近くの土堤下の空地まで足を運び、さまざまな形の石がごろごろ転がっている間をあちこち歩いて、丹念に眺めまわして選んだ鞍馬石であった。

百カ日には、故人の遺志を汲んだ松子夫人の計らいで、富山清琴によって、上野の寛永寺において谷崎の霊前に「残月」が手向けられた。

【主要参考文献】
『谷崎潤一郎集』(新潮社)、谷崎松子『蘆辺の夢』(中央公論社)、谷崎松子『湘竹居追想』(中央公論社)、谷崎松子『倚松庵の夢』(中央公論社)、『新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎』(新潮社)、伊吹和子『われよりほかに 谷崎潤一郎最後の十二年』(講談社)、ドナルド・キーン『思い出の作家たち』(新潮文庫)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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