山躑躅(つつじ)。(写真:photoAC)

「勲章などというアクセサリーはいらない」

昭和34年(1959)12月21日、76歳没。

昭和26年(1951)、東京・日本橋である陶芸展が開催された。先にパリのチェルヌスキ美術館で催された現代日本陶芸展の出品作品の、国内披露展であった。

その陶芸展に、白麻の服を着てパナマ帽をかぶり、18金の握りのついたステッキを手にしたひとりの男が現れた。身長175cm、体重100kgの堂々たる体格。不敵な面構え、丸眼鏡の奥から辺りを睥睨するような眼差しで、周囲を圧する。男は会場をひとめぐりすると、居合わせた大家たちの目の前で、彼らのものを含む作品群を次々とステッキで突き刺すように指し、こう言い放ったという。

「なんだ、いったいこれは。ろくな作品ないじゃないか。そんなもんでも、こんなもんでも、日本の伝統を多少でも汲んだ焼物と言えるのか。マシなのは俺の作品ぐらいのもんじゃないか」

この男こそ、北大路魯山人であった。

その態度に「傲岸不遜」の文字が当てられるのは、無理からぬところであったろう。

3歳の折に見た山躑躅の赤の美しさが原点

北大路魯山人は明治16年(1883)3月23日、京都上賀茂神社の社家・北大路家の次男として生まれた。房次郎と名づけられた。社家とは神社の神官を世襲する家柄だが、北大路家の現実をいえば、貧しい宮守りに過ぎない。父親は房次郎が生まれる以前に逝去しており、生まれて7日と経たぬうちに里子に出された。その後も養家を転々とし、ある家では、ひどい折檻を受けたこともあったという。

後年、本人が作家の今東光にこう語っている。

「俺は子どもの時分、それはひどい貧乏人の家へもらわれて行きましてね。貧乏人は子どもを一人前にしてやるということはないんで、子どもを棄てるように里子へやってしまった。そのくらい俺の生家は困っていたのでしょう。そうして、ひどい貧乏人のところへ何べんも何べんもやられてね。一時的なんですが、お父さんやお母さんが何人いるかわかりません」

過酷な幼少期と言わざるを得ない。

そんな中、3歳の頃、養母の背におぶさって見た山躑躅(つつじ)の赤の美しさが、房次郎の目の底の強烈な記憶として焼きつけられた。このとき、生涯、雅美なるものを追い求めていきたいとの思いが、子ども心の奥底に芽生えたという。

木版師の福田武造・フサ夫婦のもとに引きとられたのは6歳のとき。翌年、福田房次郎として小学校に通いはじめる傍ら、養父母に好かれようと、自らおさんどんを買って出て、ご飯の炊き方や食材をすべて無駄なく使い切る調理の仕方を身につけていった。魯山人は生まれながら舌の感覚にすぐれ、一方でこの養父母は貧しいながら食通だったという。魯山人と「食」との結びつきの基礎が、ここで育まれた。

美を追い求めたいという思いを最初に具現化したのは10代半ば、「書」の道においてだった。当時、京都で「一字書き」という書の懸賞が流行していた。魯山人はこれに応募して入賞。その後も度々入賞して賞金を稼ぐようになった。

この頃、魯山人は養父の木版仕事を手伝っていたが、度重なる入賞が評判となり、16歳で西洋看板書き(ペンキを使った看板書き)で身を立てるようになった。魯山人が、自身の将来に、ほのかな光明を見出した出来事であったろう。

20歳の頃、向上心を胸に上京、何人かの書家の門を叩くがしっくりせず、独学を続けた。書家に習うより、書家が手本とする先人の墨蹟から学ぶ方がいい。それが魯山人の導き出した学習法だった。後年、魯山人は記している。

《弘法大師の字を習うのに、弘法大師のお手本を習った先生の、そのお手本で習う習慣は、それはお手本の弘法大師より低下したもの、すなわち写しから習うということになるから自分は一層低下する。それを考えるときは、本から習った方がいいと気がつく。順次低下して際限なく、終には滅茶滅茶な弘法大師になる。そこで王羲之のがいいと思ったらそれを直接習うがいい。弘法大師を習いたい人は大師の墨蹟から、その書を直接習った方がいい》(『芸術的な書と非芸術的な書』)

上京から1年を経た明治37年(1904)11月、魯山人は日本美術展覧会の書の部に隷書「千字文」を出品し、褒状一等二席となった。授賞式では、席を並べた白髪の老大家たちから、先生か父親の代理と間違われたという。この作品は時の宮内大臣、田中光顕に買い上げられる。

その後、版下書家の岡本可亭(芸術家・岡本太郎の祖父)に弟子入りして経験を積んだ魯山人は、さらに朝鮮・中国に渡り、書や篆刻の腕を磨き古美術にふれた。帰国したのは29歳の夏。関西や北陸地方の名士や風流人たちの知遇を得て、看板や濡額(刻字看板)を制作する一方で、美術と美食の道に目を開いていく。

「料理と食器は車の両輪」

さらなる転機が訪れたのは、魯山人36歳のとき。

友人の中村竹四郎と共同で古美術商「大雅堂芸術店」を開くと、いつからか店内で友人知己を集めて手料理をふるまうようになった。ここから会員制の「美食倶楽部」が生まれ、やがて東京・赤坂に本格的な高級料亭「星岡茶寮」を開設。芸術に昇華した美食を演出する希代の名手として、腕をふるっていくことになる。大正14年(1925)春、魯山人は42歳になろうとしていた。

魯山人が作陶に手を染めたのも、そもそもは茶寮で使う食器をそろえるためだった。「美食倶楽部」の時代は客の数も限られ、古瀬戸、古赤絵の皿や茶碗、鉢など、骨董品から選りすぐった器に料理を盛っていた。ところが、「星岡茶寮」では料理人8名を置き、時には100人を超える客人をもてなしていかねばならない。骨董品だけでは、とても器の数が間に合わない。さりとて、一般の市販品を使うことなど考えられなかった。美味なる料理は美しい器に盛らねばならない。「料理と食器は車の両輪」「器は料理の着物」というのが、魯山人の持論だった。魯山人は次のように書く。

《なぜあなたは陶器を作るようになったか、とよく人から訊ねられるが、自分は言下に、それは自分の有する食道楽からそもそもが起こっていると答える。自分は幼年の頃から食味に興味を持ち、年と共にいよいよこれが興趣は高じて、遂に美食そのものだけでは満足出来なくなってきた。おいしい食物はそれにふさわしい美しさのある食器を欲求し、それに盛らなくては不足を訴えることになる》(『なぜ作陶を志したか』)

《与えられたる人生を美しく強く自由に生き抜かんとするには、この際、食物のみを挙げて言うならば、美味いものばかりを食い、好きなものばかりを食い、三度三度の食事に快哉を叫び続けることだ。ついでに食器の美も知って、つまらない食器では飯は食わぬというだけの識見を持ち、深く有意義に終わるべきだ。食道楽も生やさしいものではない》(『美食と人生』)

陶器の絵付けには、もちろん、書で鍛えた魯山人の筆遣いが大いに役立った。魯山人は習書にいそしむ過程で、書を能くするとは自在に線を引き得ることに在ると考え、これを体得するに至っていた。たとえば逆さまに字をかくことも、横向きに、右からも左からも、同じように字をかくことも自在にやってのけたという。

「人間国宝」の指定を固辞する

晩年の魯山人は星岡茶寮と訣別し、作陶三昧の日々に入った。北鎌倉に構えた「星岡窯」がその拠点だった。敷地内には古陶磁の参考館(コレクションルーム)を設け、「坐辺師友」とした。古い名器を手元に置いて愛玩し、写しながら、自分独自の世界を創出していく。書を学ぶとき身につけた手法の応用だった。

その作陶は、朝鮮の白磁ふうのものから、華やかな色絵物、自由闊達な織部、土の風合いを生かした伊賀や信楽、無釉の備前と、とどまることのない広がりを見せた。窯場に手足となって働く複数の職人がいたとはいえ、魯山人の手になる器は20万点にも及ぶと伝えられる。

昭和34年(1959)秋、魯山人は生まれ故郷の京都で書道展を開いた。原点回帰の思いが胸の中に萌していたのだろうか。魯山人は周囲に「これからは書で行く」と語り、引き続き書道展の準備を進めていたという。

そんな最中、体調をくずして横浜市内の病院に入院。暮れも押しつまってきた12月21日、肝硬変のため息を引きとった。享年76。死を迎える少し前、魯山人の何者なるかを知らない病院の看護士が本人に尋ねると、魯山人は紙切れに「京都 賀茂別雷神社 社家 北大路」とのみ記してみせたという。

色とりどりの絢爛たる華を咲かせた芸術人生の果て、最後の最後は、生を受けた原点にまで還りつく思いがあったのか。あるいは、たとえ貧しくとも、古くからの歴史と伝統に連なる出自に秘かな誇りを抱きつづけていたのか――。

最後にもうひとつ、記しておかねばならないエピソードがある。

最晩年(昭和30年頃)、北鎌倉の魯山人のもとには、文部省文化財保護委員会調査官の小山富士夫が二度にわたって訪れていた。無形文化財(人間国宝)指定の受諾を要請するためだった。が、魯山人は頑として肯わなかった。晩年の魯山人の傍らにいた弟子の平野雅章によれば、小山が帰ると魯山人は人間国宝指定の推薦用紙を弊履のごとく投げ捨てて、こんな言葉を口にしたという。

「作家にとっては、作品が永久にものを言うから、勲章などというアクセサリーはいらない」

胸の中には、「芸術家とは、どんなものであれ、位階勲等とは無縁であるべきだ」との信念があった。北大路魯山人の「傲岸不遜」は、かくも純粋な芸術家魂で裏打ちされていたのである。

【主な参考文献】
『夢境 北大路魯山人の作品と軌跡』(山田和、淡交社)、『美と食の天才 魯山人 ART BOX』(黒田草臣、講談社)、『魯山人雅美礼讃』(平野雅章、広済堂出版)、『別冊太陽 永遠なれ魯山人』(山田和監修、平凡社)、『魯山人の世界』(白崎秀雄、ちくま文庫)、『魯山人書論』(中公文庫)、『NHK美の壺 魯山人の器』(NHK出版)、『魯山人の書』(山田和、平凡社)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

ランキング

サライ最新号
2026年
11月号

サライ最新号

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Youtube
  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

花人日和(かじんびより)

おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店
おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店