
「ぼくの将棋は生命そのものなのだ」
昭和21年(1946)7月23日、76歳没。
棋士の坂田三吉は、人並み外れて頭が大きかった。それも、いわゆるサイヅチ頭。頭頂部が平べったくて、ハチが張っている。家族の者は、足袋の福助のキャラクターに似ているので「福助頭」と言っていたという。当の本人曰く。
「頭の大きいのは賢人の証拠やそうやが、ワシの頭は将棋ばかりで、外(ほか)になんにもない」
素朴な謙遜の中に、我知らず、ほのかなユーモアと棋士としての矜恃が漂っている。
芝居や映画の『王将』に誇張して描かれるような粗野な奇人、変人ぶりは、坂田の実像ではなかった。貧窮暮らしが長く、無学なため、多少のわがままや奇行もあったが、年齢を重ねるとともに落ち着きが出て、律儀で礼儀正しく、盤に向かうと決して膝を崩さなかった。駒の指し方も静謐で、「音のする駒はその人の将棋がほんものになっていない証拠だ」と語っていた。
長く丁寧なお辞儀でも有名だった。挨拶された相手がお辞儀を返し、相応の間を置いて頭を上げると、坂田はまだ頭を下げている。相手は慌ててお辞儀の継ぎ足しをするのが常だった。坂田の内弟子で寝食をともにしていた星田啓三は、こんな逸話も伝えている。
「たずねてきた客が帰るとき玄関先で送るのが普通だが、師匠はどんな客でも必ず家をでて相手の姿が見えなくなるまで、ずっと立って見送った。雨の日も、雪が降っても変わることがなかった」
経済的にも安定した晩年期は、身だしなみにも人一倍気を遣っていた。
娘や孫たちも、「家の中でもきちんと着物を着て、アイロンがけした足袋をはいていた」「爪をきれいに見せるため、いつも爪ブラシで丹念に磨いて油を塗っていた」「勝負師が白髪では惨めだといって、目立たないように気をつけていた」「下着の袖口や襟元が見えるのはみっともないといって、どんな高価な下着でも、着物の外にはみ出さないように切り取っていた」などと、口々に証言している。
後輩たちにもやさしかった。「将棋指しは体が大事や。体をつくらにゃあかんで」と独自の健康法を説き、若い記録係には「これ取っとき」と手の切れるような5円札の入った封筒を差し出した。少年時代の大山康晴(のちの十五世名人)も、この恩恵にあずかったひとり。「当時の5円は、うどんなら70杯、カレーなら50皿食べられるという金額だった」と、懐かしみながら回顧している。
また、若き日の升田幸三には、自身の大局観を語りこう訓示していた。
「あんたら、五尺の高さで物を見ますやろ。そやから目の前の火事しか見えへん。そこへいくと、わては五重塔の上に立っとるさかい、大阪中の火事がみんな見える」
升田はのちに史上初の三冠(名人、王将、九段という当時の全タイトル獲得)を達成するが、坂田はそんな升田に早くから目をかけ期待を寄せていたという。
生涯のライバル・関根金次郎と出会う
坂田は明治3年(1870)6月3日、和泉国大鳥郡舳松(へのまつ)村(現・大阪府堺市)の生まれ。家業は草鞋の表づくりだった。明治9年(1876)、小学校に入学するが半年ほどでやめてしまう。
本人は「一体ワシは読み書きが大嫌いで学校へは半年ばかり通ったけれど、勉強がいやでいやでならない」と語っているが、そこには家の貧しさも影響していたのだろう。現在、扇子や盤蓋の裏などに揮毫した坂田自筆の「馬」と「三」の字を見ることができるが、これは坂田が還暦の頃、書家の中村眉山に教わったものである。書けるのはこの2文字で、読めるのは将棋の駒の字だけだった。
坂田は勉強は嫌いだが、将棋は大好きだった。近所では、よく縁台将棋を指していた。それを見て習い覚え、12歳の頃には初段の棋力を身につけたという。そうなるともはや、村の大人たちで坂田にかなう者はいなくなっていた。
16歳の夏、父親が突然に亡くなった。戸主として家計を支える立場となった坂田は、家業を引き継ぐより得意の将棋に活路を見出す。当時、街中では当たり前のように賭け将棋が行なわれており、坂田は相手を求め大阪市内までも出かけていく。そのうちに「堺の三吉」は、凄腕の賞金稼ぎとして広く知られるようになった。
坂田が25歳の頃、突然に堺の料亭に連れて行かれ、色の白い役者のような男と将棋を指すように言われた。相手は、今まで対戦した誰よりも強かった。三番指して、角落ち(相手が角なしで戦うハンディ戦)でひとつ星を拾うのがやっとだった。その相手が、西国武者修行中の東京のプロ棋士・関根金次郎であることは、あとで知らされる。
生涯のライバルとの邂逅であった。
明治39年(1906)4月22日、35歳の坂田は大阪・阿弥陀池で、またも関根と盤を囲んだ。あの日の対局以来、すでに何番か戦っているが、この日の対局は坂田の生涯の中でも特筆すべきものとなる。
昭和戦前までの将棋は、段差によってハンディが決まっていた。二段差で香落ち、四段差で角落ちといった塩梅。このとき、関根の八段に対し、坂田は五段か五段半と目されていた。よって香落ちで二番指したのだが、その二局目が問題だった。
坂田が怒濤の攻めで敵陣に迫る終盤、関根の巧妙な受けから、互いに同じ手の繰り返しになる「千日手」となった。現在のルールなら引き分けだが、当時は同じ指し手を三度繰り返した場合、仕掛けた方が手を変えなければならなかった。師匠もおらず、自己流で叩き上げた坂田はそれを知らなかった。坂田は指摘されて、動揺し、敗北に追い込まれた。
坂田の中でこれは「発奮の千日手」となった。関根は「千日手」となることを見抜き、巧みに自分の勝ちに結びつけた。そんなのは本当の勝ちではない。坂田はそう思って憤慨し、帰宅すると女房のコユウにこう宣言した。
「俺は今日から本当の将棋指しになる。今まではなろうかなるまいかと迷っていた。が、今日からはっきり自分の行く道がきまった。石を噛ってでも、立派な将棋指しになって見せる」
糟糠の妻コユウの最期の言葉は…
坂田と関根の対決は、この後も長く続いた。最初は敵愾心ばかりを露にしていた坂田も、いつしか関根の強さと人間性に敬意を持つようになっていた。本気になって将棋に打ち込み修養を重ねるうち、坂田本人も人間的に成長していったのだろう。
一方で、関東と関西の棋界全体には、よくも悪くもライバル意識が強かった。関根と坂田はその「神輿」として担がれている部分があった。
大正4年(1915)2月、十二世名人の小野五平が坂田に八段を免許した。
坂田はそれまで正式な段位を求めたこともなく、その頃は自ら七段を名乗っていた。八段は当時の最上位で、坂田は関根に並ぶことになった。
大正10年(1921)1月、小野五平が没し、まもなく関根金次郎が十三世名人に就任した。まだこの頃は、名人位はタイトルとして争うものでなく、世襲制のような形をとっていた。坂田にも異論はなく、関根の名人就位の披露式にはお祝いに駆けつけ、自らが編んだ草履を贈ったという。
だが、名人となった関根が八段の昇段を乱発したことで、坂田の周辺に波瀾が起こった。東京に対抗して坂田を名人にすべし、という声が上がる。80人を超える関西の政財界人に推され、坂田は名人に押し上げられた。が、東京方はこれを暴挙として、坂田は中央の将棋界から絶縁状を突きつけられてしまう。大正14年(1925)4月、時に坂田54歳。
傷心の坂田に、さらに追い打ちがかかる。昭和2年(1927)秋、糟糠の妻コユウが亡くなった。数年前に坂田が白内障を患ったとき、病気平癒祈願で滝に打たれて水垢離をとってお百度参りしたことも、寿命を縮めたようだった。コユウの最期の言葉は、「あんたは将棋が命や、あほな将棋は指しなはんなや」だったという。
この言葉は、坂田の胸の奥深くにしみ入った。
昭和4年(1929)、坂田は口述筆記で大阪朝日新聞に『将棋哲学』を連載した。そこには、耳学問と長年の将棋修業で築き上げられた一見識が現れていた。
以下に掲げるのは、その一節。
《心というやつはコロコロ転げるのでこころやそうやが、全く妙なもので、瞬くうちに鬼にもなれば仏にもなる。瓢箪から駒がでたり剣がでたり、地獄、極楽から人間界を転がり回ってやっと落ち着くことができた。そのうちにだんだん気持ちが澄んでくる。濁った米の研ぎ水を、きれいな流れがスーッと洗い清めてゆくように、心のうちが冴え冴えしてきた。冴えた心に月宿るで、心が冴えてくるにつれて、不思議に先の手が読めだした。何百手の先の先まではっきりと》
《蓮根をポキンと二つに折ると、蜘蛛の糸よりも細い糸がでる。その細い糸の上に人間が立っているとしたらどうか。立とうとて立てるものではないが、確かに蓮の糸の上に立ったのだ。一切の力が身体から脱けだして駒に吸いこまれてしまうと同時に細い糸の上にも立って歩ける、というふうにならなければ本当の将棋でない。そんなとき打つ駒に音の出るはずがない。響きのするはずがない。音をさせるのは心もちが本物でないからだ》
いずれの言葉にも、深い含蓄がある。坂田の孫弟子に当たる棋士の内藤國雄も、こう評している。
《一つのことを成しとげた人は、一つの哲学を会得するのだと思う。字が書けず、読めなかったが、将棋を通して確固たる境地に至った人である。(略)大阪朝日に連載された師の述懐「将棋哲学」には、深い思索とともに、将棋指しが登りつめ得る最高の境地を感じさせる悟りがある》
「興味無限の名手」を指したい
昭和10年(1935)3月、関根金次郎は突然に名人退位を発表した。同時に従来の一世一代名人制を廃止し、実力制の短期名人制度を取り入れることが決していく。革命的英断だった。
こうして同年6月から実力名人を目指す戦いが、東京日日新聞(現・毎日新聞)の主催で始まる。9人の八段棋士が2年がかりで、総当たり2局ずつのリーグ戦を行ない、覇を競っていく。
このリーグ戦の最中、読売新聞社が動き、坂田の復帰話が浮上する。対局相手の筆頭候補に挙がったのは、リーグ戦で首位を走る木村義雄。連盟は反対したが、木村が強く希望して実現の運びとなった。
その対局は昭和12年(1937)2月5日、京都の南禅寺で実施された。持ち時間30時間、対局日数7日の大勝負である。坂田は実に16年ぶりの公式対局だった。この時、坂田66歳、木村31歳、35歳の年齢差があった。
午前10時5分、対局開始。先手番の木村が7六歩と角道をあけた後、後手番の坂田は9四歩と端歩を突いた。前代未聞、奇想天外にも映る一手。だが、それは、晩年の坂田が抱いた「興味無限の名手」を指したいという芸術的探究心の発露だったろう。坂田は以前から「譜は後世に残るもの」「ぼくの将棋は生命そのものなのだ」と語っていた。
勝敗を超越した感動は、翌日の新聞にも、こんな見出しを躍らせた。
「雌伏十六年、忍苦の涙は9四歩の白金光を放つ」
まだ作家デビュー以前で、三高を中退し裏ぶれた生活を送っていた織田作之助も、この観戦記を目にし心震わせたという。のちに織田はこう記す。
《私は眼がぱっと明るくなったような気がして、「坂田はやったぞ。坂田はやったぞ」と声に出して呟き、初めて感動というものを知ったのである。私は九四歩つきという一手の持つ青春に、むしろ恍惚としてしまったのだ。私のこの時の幸福感は、かつて暗澹たる孤独感を味わったことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でいた》(『驟雨』)
南禅寺のこの大一番、3日目には、互いに一手ずつ、ふたつの駒しか動かない日もあった。駒に己の生命を吹き込むようにして、盤の前に端座。互いの気魄が静謐の中に交錯し、やがて盤上に棋譜という美しい花が咲きこぼれる――。
最終日の2月11日、午後1時7分、木村の95手目の5五角に、盤面を凝視していた坂田が投了し、勝負は決着した。
南禅寺の対局のあと、木村は進行中だった名人決定リーグでも見事に優勝を果たし、初代実力名人となった。昭和12年(1937)12月のことだった。
その名人木村への挑戦権をかけた第2期名人挑戦者決定リーグ戦は、翌昭和13年(1938)6月に開幕する。そこに、坂田の姿もあった。将棋愛好家として知られる文藝春秋創業者の菊池寛の働きかけによるものだった。菊池は文壇のみならず、棋壇にも大きな影響力を持っていた。
このリーグ戦も第1期と同じく、前後半に分けて、2年がかりの戦いが繰り広げられた。坂田は前半戦こそ2勝6敗と苦戦したが、後半戦は5勝2敗と大きく勝ち越し、通算7勝8敗で総合4位。名人位への挑戦権は獲得できなかったが、古希(70歳)に手が届く坂田の年齢を考えれば、堂々たる闘いであった。
期間中、昭和14年(1939)10月の、対金易二郎戦の講評を、木村義雄が書いている。
《妙手を連発し、久し振りに坂田氏の真価を発揮し、まさに万丈の気を吐く壮観である。(略)ひとたび坂田氏の得意とする持久戦となれば、往年の威力は烈々として盤上を圧し、この一戦のごとき、まさに遺憾なく氏の特技を発揮されている。坂田氏の不屈撓の研究欲が、近代将棋の神髄を会得することに成功せば、虎を千里の野に放つがごとく、棋界を震駭するかも知れない》
昭和21年(1946)3月、長年のライバルだった関根金次郎が逝去した。その4か月後の7月23日、坂田は満76歳で病没した。ライバルの後を追うような鬼籍入りであった。坂田は死去する少し前にも毎日新聞社を訪れ、次の名人戦リーグへの参加の意志を伝えていたという。
一緒に暮らしていて、坂田の最期を看取った三女の美代は、後年、雑誌のインタビューに答えてこんなふうに語っている。
《父はすごく丈夫で健康でしたが、終戦翌年の夏でもあり、すでに七十七歳という高齢でもありましたので、食当りから腸カタルを起こして寝こみ、それでも、ただの下痢だろうぐらいに思っていたら、老衰が起きて十日目くらいに、全然苦しみもせずラクに亡くなりました。(略)好きなように生ききってグチひとついわずに、なんの執着も未練もないようすで、きれいに逝ったああいう死に方ができた父は、それだけでもとても偉い人だと思うんです。何か一つの道に秀でた人のもつ風格がじゅうぶんある人でした》
弟子の星田が語った次のような言葉が、坂田の生きた足跡をよく伝えている。
「師匠の一生が八十一角の盤上を動く駒であり、駒と坂田は一体だった。自分が駒になり切っていた」
【主な参考文献】
『9四歩の謎 孤高の棋士坂田三吉伝』(岡本嗣郎、集英社)、『反骨の棋譜 坂田三吉』(大山勝男、現代書館)、『反骨の棋士 阪田三吉』(舳松歴史資料館)、『王将・坂田三吉』(織田作之助ほか、中公文庫)
※坂田と阪田は二つの表記があり。本文は「坂田」をとり、参考文献のタイトルは原題の通りとなっています。
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矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com







