取材・文・写真/鈴木拓也

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飛鳥時代を特徴づける出来事として、日本という国家の成立と政治制度の諸改革が挙げられる。くわえてもう1つの大きな変化は、仏教の受容である。
6世紀半ば、百済の聖明王が、欽明天皇に仏像や経論などを献じて、仏教の布教をすすめた。既に一部の渡来人が私的に仏教を信仰していたが、これを契機に国家宗教として日本に広まっていく。
蘇我馬子の氏寺として創始した飛鳥寺
崇峻元年(588)、時の有力者であった蘇我馬子は、飛鳥の地にて飛鳥寺(あすかでら)の造営に着手した。
このために、百済から僧や工人らが招かれ、渡来人も多数動員され大々的に建設がすすめられた。寺地を造成し、山で材木を切り出すことから始まり、一応の完成を見るまでに10年近くを要した。
建立された飛鳥寺は、1つの塔の東、西、北に3つの金堂が立つ大伽藍であった。寺域は東西約200m、南北約300mの広さに及んだ。後に推古天皇は、本尊となる銅・繍2躯の丈六の仏像の制作を命じた。銅仏は、高句麗王から寄進された黄金で鍍金され、推古14年(606)(元興寺縁起では609)に完成して金堂に置かれた。
かつては、寺の近くに供宴施設と広場があった。その広場で蹴鞠会が行われ、中大兄皇子と中臣鎌足はそこで出会い、蘇我氏の打倒計画へとつながった。蘇我馬子の孫、入鹿を倒した皇子は、飛鳥寺を占拠して本陣とした。もとは蘇我氏の氏寺として創始されたことを思えば、皮肉なことである。
8世紀初頭、都が藤原京から平城京へ移る際、飛鳥寺も移転し元興寺(がんごうじ)となった。もとの飛鳥寺も健在であったが、火災に遭うなどして衰微していく。江戸時代初期に安居院と呼ばれる草庵がこの場所にでき、後に若干の堂宇も建った。以来、法灯を守る取り組みが続けられ、今に至る。
現在の飛鳥寺の境内には、本堂、観音堂、鐘楼などあり、本堂内部には創建当初に造立された釈迦如来坐像が安置されている。一度は火災で焼けたが、溶けた銅を使い補修したという。顔や右手の大部分は造立当時のものである。現存する日本最古の仏像であり、重要文化財に指定されている。


裏門から出ると、細長い花畑があり、このときは色とりどりの花が咲き誇っていた。花々を右手に舗装道を歩くと、突き当りに蘇我入鹿の首塚と伝わる五輪塔が立っている。ここを含めて一帯が、飛鳥寺跡として世界遺産に登録されている。

その先には、蘇我氏の邸宅があったという甘樫丘(あまかしのおか)が望見できる。
飛鳥寺
住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682番地
TEL:0744-54-2126
拝観時間:4月~9月は09:00~17:30(受付は17:15まで)、10月~3月は09:00~17:00(受付は16:45まで)
拝観料:大人・大学生500円、高校生・中学生300円、小学生250円(30人以上の場合は団体割引あり。)
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皇室の後押しで壮大な伽藍を得た山田寺
山田寺は、乙巳の変(いっしのへん)に加わった1人、蘇我倉山田石川麻呂の氏寺である。
乙巳の変のその日、石川麻呂は皇極天皇の前で上表文を読んだ。その最中に2人の刺客が現れて蘇我入鹿を斬る手はずであったが、恐れをなした刺客らは一向に姿を見せない。石川麻呂は焦りのあまり、手が震えて声も乱れ、入鹿に不審に思われてしまう。機転をきかせた中大兄皇子が入鹿に襲い掛かり、刺客も勢いを得て3人がかりで倒したと伝わる。
石川麻呂が山田寺を発願したのは、それより前の舒明13年(641)である。ある程度の完成を見た頃、彼は謀反の疑いをかけられた。これは、石川麻呂を陥れるための根拠のない嫌疑であった。石川麻呂が山田寺に籠ったところを兵が包囲し、妻子ともども自害。寺の造営は頓挫した。
後に工事は再開された。死後に無実が晴らされた石川麻呂を供養する意味もあって、皇室は寺の造営に積極的であった。天武14年(685)、堂宇・仏像のすべてが完成した。塔・金堂・講堂を一直線に並べた、百済式の壮大な伽藍であった。この様子を伝える当代史料は乏しいが、藤原道長は高野山詣の途上で山田寺を訪れ、言葉で言い尽くせないほどだと讃嘆した。
しかし、文治3年(1187)、この寺を災難が襲う。興福寺の僧兵が、本尊の薬師三尊像を強奪し、ほどなくして堂宇は焼け落ちる。
世界遺産に登録された山田寺跡は、土がかぶせられた金堂と塔の基壇が認められるほかは、一面が野原である。近くに講堂跡に建った観音堂があるが、これは江戸時代のもの。

昭和58年(1983)、10世紀末の土砂崩れで倒壊した回廊の一部が、良好な保存状態で出土した。その一部を復元したものが飛鳥資料館で常設展示されている。部分的ではあるが、現存する世界最古の木造建造物の法隆寺よりも古い遺物と言え、重要文化財に指定されている。なお、奪われた薬師三尊像の頭部は現存し、国宝「銅造仏頭(旧東金堂本尊)」として興福寺の国宝館で展示されている。
川原寺跡
川原寺(かわらでら)の創建については史書に記述がなく、謎に包まれている。有力な説は、660年代に、天智天皇が亡母・斉明天皇の追善のため、川原宮の跡地に建立した寺だという。天皇の発願による寺院としては、百済大寺(くだらのおおでら)に続いて2番目。初唐様式の屋根瓦が導入されるなど、唐風化の先駆となった寺であった。
文武朝の頃には、(百済大寺の後身である)大官大寺、薬師寺、飛鳥寺とともに四大寺とみなされるほどの寺勢を誇った。しかし、平城京遷都の際にはほかの三大寺のように移転はせず、次第に寺格が低下していく。平安時代に入って、この寺は空海に与えられ、以降は東寺の末寺となった。建久2年(1191)に全域が焼失。後に復興を果たすも、16世紀にまた焼け落ちてしまう。

世界遺産に登録された川原寺跡は、比較的交通量の多い県道155号線沿いにあり、近くにバス停がある。バスに乗ってきた観光客は、石の基壇がのぞく広々とした跡地をしばし散策したのち、車道をまたいで反対側にある橘寺へと向かっていった。
発掘調査によって往時の川原寺は一塔二金堂式の伽藍で、広さは東西150m超、南北約330mに及ぶことが判明している。そばに小規模な寺があるが、これは江戸時代に創建の弘福寺(ぐふくじ)で、現代では川原寺(かわはらでら)とも呼ぶ。
弘福寺(川原寺)の公式サイト:https://kawaharadera.com
【主要参考図書】
『飛鳥・藤原の歴史と遺産 上』(木下正史著/吉川弘文館)
『飛鳥・藤原の歴史と遺産 下』(木下正史著/吉川弘文館)
『一冊でわかる飛鳥・奈良時代』(大石学監修/河出書房新社)
『宮殿の古代史』(海野聡著/集英社)
『飛鳥・藤原の宮都』(来村多加史著/NHK出版)
取材・文・写真/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。







