
はじめに-吉川平助とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する吉川平助(よしかわ・へいすけ、演:松岡広大)は、織田信長(演:小栗旬)の時代から豊臣秀長(演:仲野太賀)の時代にかけて、船運や港湾支配、紀伊(現在の和歌山県全域と三重県南部)の統治に関わった人物です。『新版 角川日本地名大辞典』(KADOKAWA)には、信長の時代に伊勢国(現在の三重県東部)大湊(おおみなと)の船奉行を務めた人物として名を残しています。
また、天正9年(1581)の羽柴秀吉(演:池松壮亮)による鳥取城攻めでは船手として活動し、のちには豊臣秀長の家臣として紀湊(きのみなと)を守ったとも伝えられています。
史料に残る情報は断片的ですが、海運から軍事、地方統治まで幅広い役割を担った人物だったことがうかがえます。この記事では、吉川平助の足跡をたどります。
『豊臣兄弟!』では、商人の経験を生かして活躍する秀長の家臣として描かれます。

写真:photoAC
吉川平助が生きた時代
吉川平助が活動した16世紀後半は、織田信長が各地へ勢力を広げ、その後、豊臣秀吉が全国統一を進めていった時代です。
陸上の合戦だけでなく、海や川を使った兵員・兵糧の輸送も戦争の行方を左右しました。また、天下統一が進むにつれ、港や山間部など、それまで地域の自治や独自の勢力が強かった場所にも、中央政権の支配が及ぶようになります。
とりわけ紀伊では、豊臣秀長のもとで検地が進められ、地域の支配体制が大きく変わっていきました。
平助が生きたのは、戦国の武力による争いから、港・物流・検地などを通じて全国を治める時代へと移り変わる時期だったのです。
吉川平助の生涯と主な出来事
吉川平助の生没年は不詳です。限られた史料から、その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
織田信長のもとで大湊の船奉行を務める
吉川平助の生年や出自については、はっきりとしていません。しかし、『角川日本地名大辞典』(KADOKAWA)の「大湊」の項には、織田信長の時代、大湊の船奉行として「吉川平助」の名が残っています。
大湊は、宮川や五十鈴川の河口に位置し、伊勢神宮領からの年貢や物資が集まる場所。伊勢湾内だけでなく、遠江(現在の静岡県西部)や伊豆(現在の伊豆半島と伊豆諸島)など太平洋沿岸からの船も入港しており、中世から海上交通の要衝として発展していました。
その大湊で船奉行を務めたということは、平助が船の運用や港湾、海上輸送に関わる知識を持っていたことがわかります。
秀吉の鳥取城攻めで船手として活動
天正9年(1581)、羽柴秀吉は中国地方攻略の一環として、因幡の鳥取城を攻めました。この戦いでは、鳥取城への兵糧や武器の補給を絶つことが重要な作戦でした。

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『角川日本地名大辞典』(KADOKAWA)の「防己尾(つづらお)城跡」の項によると、秀吉方の部将・多賀文蔵が船手を指揮し、山本喜平次と吉川平助らが毛利方の防己尾城を攻撃したとされています。しかし、城を攻略することはできませんでした。
また「弁財天島」の項では、毛利方が海から鳥取城へ運ぶ武器・兵糧を遮断するため、秀吉配下の「船大将」吉川平助が弁財天島に陣所を構えたとも伝えています。
つまり平助は、鳥取城攻めでも船運や水上交通を押さえる役割を担っていたことになります。
信長時代の大湊船奉行という経歴とあわせると、海や川を利用した軍事行動に長けた人物だったことがうかがえます。
秀吉の紀州攻め後、秀長の家臣となる
天正13年(1585)、羽柴秀吉は紀州攻めを行いました。その後、紀伊は秀吉の弟・豊臣秀長の支配下に置かれます。
天正13年(1585)以後、秀長の家臣となった吉川平助が紀湊城を守ったといわれています。紀湊は、紀伊の海上交通にとって重要な場所でした。
秀長による紀伊支配の中で、海運に通じた平助が紀湊を任されたことには、これまでの経験を買われてのことでしょう。
秀長による北山支配に関わる
吉川平助の名前は、紀伊の山間部である北山の支配でも確認できます。北山は険しい山々に囲まれ、古くから土豪たちが力を持ち、外部からの支配が及びにくい地域でした。
天正13年(1585)、秀長は紀伊国全体に検地を命じます。しかし北山では、豊臣政権による検地への抵抗が起こりました。
『角川日本地名大辞典』(KADOKAWA)によると、秀長は北山に対して非常に厳しい姿勢をとり、天正16年(1588)には新宮の堀内氏らを動かして北山征伐を行いました。
ここで、吉川平助も登場します。「寺谷村」の項には、大和大納言、すなわち秀長の命によって、吉川平助、吉川三蔵、新宮の堀内氏らが3千~4千5百人ほどを率いて北山へ進軍したと伝えられています。
吉川勢は周辺の村々を味方につけ、多尾(たお)城に籠もった一揆勢を攻め落としました。
北山で最初の「仕置」を行った人物
さらに『角川日本地名大辞典』(KADOKAWA)の「北山」の項には、興味深い記録が紹介されています。
『和州北山一揆次第』によれば、信長の時代まで北山には守護による支配が十分に及んでいませんでしたが、「太閤様御代」、つまり秀吉の時代に、吉川平助と吉川三蔵が初めて「仕置」を行ったとされています。
ここでいう「仕置」は、単なる軍事的な討伐だけではなく、地域を政権の支配下に組み込み、行政的な秩序を整える意味も含むと考えられます。
平助は戦場で戦うだけの武将ではなく、秀長による紀伊統治を現地で実行する役割も担っていたのです。
大湊の船奉行、鳥取城攻めでの船手、紀湊の守備、そして北山の仕置。こうして見ると、平助には交通や物流の要地を押さえ、豊臣政権の支配を現地に浸透させる役割が期待されていたことが見えてきます。
まとめ
吉川平助の足跡を追うと、海上輸送、港湾管理、軍事、地方統治といった実務を担った人物だったことが見えてきます。
史料に残る情報は決して多くありません。それでも吉川平助は、秀吉の天下統一を支えた秀長の紀伊支配を、現地で実際に動かした実務型の家臣の一人として注目すべき人物といえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
『角川日本地名大辞典』(KADOKAWA)











