取材・文・写真/鈴木拓也

奈良県の明日香村を中心とした一帯は、古代において本格的な宮殿と都が営まれ、日本という国家が揺籃した場所である。
去る7月26日、この地の史跡群が「飛鳥・藤原の宮都(きゅうと)」として世界文化遺産に登録された。これは、古墳や遺跡を中心に19もの資産で構成されており、くわえて国・県の指定史跡や日本遺産認定の資産も散在し、見どころには事欠かない。
本連載は、「飛鳥・藤原の宮都」の全資産といくつかの旧跡を探訪。写真付きで紹介するものである。
約1世紀にわたり政治の中心となった飛鳥宮跡
「世界遺産『飛鳥・藤原』協議会」の公式サイトを見ると、「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産は、宮殿・官衙(かんが)跡、仏教寺院跡、墳墓の3カテゴリーに大別されている。本稿もそれに倣い、多少前後することもあるが時系列に沿ったかたちで取り上げていきたい。そこでまずは、飛鳥宮跡から始めよう。
大王(おおきみ)と豪族による連合政権が形作られてしばらくは、王宮は特定の一地域にとどまらなかった。つまり、近畿の域内でほぼ一代ごとに遷居するのが慣例となっていた。
それが変化したのは、推古天皇の即位をもって始まる飛鳥時代からで、おおむね飛鳥の地に置かれるようになった。崇峻5年(592)の即位の時点では、政庁は豊浦宮(とゆらのみや)にあった。位置は、今の明日香村豊浦付近と推定される。推古11年(603)に、そう遠くない小墾田宮(おはりだのみや)に遷宮した。ここで推古天皇は、蘇我馬子や聖徳太子ら有能なブレーンとともに、冠位十二階や十七条憲法の制定など歴史に残る政治改革に邁進した。
推古36年(628)、推古天皇が崩御し、後を継いだ舒明天皇は近くに遷宮した。これが飛鳥岡本宮である。以後、天皇の代替わりごとに、飛鳥板蓋宮(皇極天皇)、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武天皇と持統天皇)と宮殿が営まれるが、ほぼ同じ場所であった。その跡地を現代では飛鳥宮跡と呼ぶ。当時の宮殿は、皇室の政務の場と居住の場が一体であり、官衙(役所)は周辺に分散していた。
飛鳥宮跡は明日香村岡にあり、野原の処々に建物の柱の位置を示す丸太が据えられている。

上の写真は、内郭(内裏の中心部)の南側で撮ったもの。かつては、地面は礫敷舗装され、このそばに建っていた内郭前殿では、授位や儀式などが執り行われた。ちなみに内郭は、南北約197m、東西約158mにわたり塀で囲まれていた。
北に向かってしばらく歩くと、石敷きの広場に行き当たる。この区画は、高床張りの掘立柱(ほったてばしら)建物が立ち並んでいた。儀礼で用いる霊水を汲み上げる大井戸や天皇の私的空間(後宮)もここにあったと想定される。

建築物の建て替え・増改築を繰り返しながら、飛鳥宮は約1世紀にわたり政治の中心地であり続けた。その間、歴史的に重要な出来事の舞台ともなった。なかでも特筆すべきは、皇極4年(645)6月12日の「乙巳(いっし)の変」だろう。その日、飛鳥板蓋宮において、朝鮮半島の国々から献上された品々を皇極天皇に献上する儀式が行われた。その最中、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、権勢をふるっていた蘇我入鹿を討った。直後、皇極天皇は退位を表明し、軽(かるの)皇子に位を譲った。それからほどなく、日本初の元号となる大化が定められ、政治を一新する様々な施策が実行されることになる。
日本式庭園の源流である飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池(えんち)は、飛鳥宮に付属する、堀立柱塀で囲まれた宮廷庭園である。斉明天皇の治世下に造園され、天武天皇の代に大幅に改修された後、持統天皇の代まで現役であった。
考古学的調査で発見されたのは、平成11年(1999)と最近のことで、以降十数度にわたり調査が行われた。位置的には飛鳥宮北西の飛鳥川沿いにあり、池の大きさは南北約100m、東西約60mにおよぶ。池の真ん中あたりを渡堤が通り、北池と南池に分かれていた。岸辺は石を垂直に積み上げて護岸された。水源は地中からの湧水であり、飛鳥川へ水を排水する水路も見つかっている。噴水、中島、高床式の「水上舞台」も築かれており、朝鮮半島の影響を受けつつも日本独自の意匠を採り入れた、確認された最古の宮廷庭園とされている。
当初の調査研究では、ここは国賓らをもてなす供宴の場と考えられていた。しかし最近になって、北池は禊ぎや祭祀のための施設、南池は観賞目的であったことが判明している。
現在の苑池は一面が草に覆われ、往時の壮観を偲ぶことはできないが、清々しい雰囲気に満ち、心が安らぐ。なお、そばの少し高くなった広場には、飛鳥京跡苑池休憩舎があり、史跡巡りの疲れをいやすこともできる。


漏刻によって時を知らせた飛鳥水落遺跡
『日本書紀』には、斉明6年(660)に中大兄皇子が初めて漏刻(ろうこく)を作り、民に時を知らせたとある。漏刻とは水時計のこと。構造としては、複数の水槽を階段状の台に乗せ、各水槽を細い銅管でつなぐ。一番高いところにある水槽からその下の水槽に銅管を通して水が流れ、さらにまた下の水槽に流れ…を繰り返し、最下段の水槽にたまった水の量で時を計測し、一定時間ごとに周辺に鐘の音を響かせた。いくつもの水槽を用いるのは、たまっている水の量によって水圧が変わり、流れる水量も変わってしまうのを補正するためである。
飛鳥水落(みずおち)遺跡は、この日本最古の漏刻台の跡地である。位置的には飛鳥京跡苑池から北に1kmほどのところにあり、古代の迎賓館と推定される石神遺跡が近くにある。

漏刻台は漏刻を収めた特殊な建物で、その建設にはまず40m四方を約3m掘り込み、盛土で埋め立て、その上に柱を立てる礎石を据えた。円形の穴が空いた礎石は全部で24個あり、24本の柱が使われた総柱(そうばしら)建物であったことがわかる。礎石同士をつなぐように石が並べられていたのが、今も見ることができる。

この施設の漏刻は、天智6年(667)の近江大津宮への遷宮に伴って新たな宮に移され、廃絶している。
[酒船石遺跡、藤原京跡編]へつづく
【主要参考図書】
『飛鳥・藤原の歴史と遺産 上』(木下正史著/吉川弘文館)
『飛鳥・藤原の歴史と遺産 下』(木下正史著/吉川弘文館)
『一冊でわかる飛鳥・奈良時代』(大石学監修/河出書房新社)
『宮殿の古代史』(海野聡著/集英社)
『飛鳥・藤原の宮都』(来村多加史著/NHK出版)
『前方後円墳』(下垣仁志著/吉川弘文館)
取材・文・写真/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。











