
(写真:photoAC)
「たつた一度きりしかない生涯ですもの」
昭和13年(1938)10月5日没。52歳。
まだ長沼姓の26歳の智恵子が、グロキシニアの大きな鉢植えを抱えて、3歳年上の高村光太郎の東京・駒込のアトリエを訪ねたのは、明治45年(1912)6月のことだった。この日から互いの思いは深まっていき、大正3年(1914)12月22日、上野精養軒で結婚披露宴が催される。宴には、画家の藤島武二や与謝野鉄幹・晶子夫妻、田村松魚・俊子夫妻らが列席していた。この夜は、冬には珍しく暴風雨が吹き荒れていた。
智恵子は福島の酒造家の娘。福島高等女学校卒業後、上京して日本女子大に入学。美への憧れが強く、家政学部に籍を置きながら、自由選択の洋画の教室に通いつめていたという。大学卒業後も郷里には帰らず、太平洋画会の研究所に通い画家への道を歩み出した。日本女子大の1年先輩には平塚らいてうがいた。らいてうは、女性による女性のための雑誌『青鞜』を創刊するに当たって、智恵子にその表紙絵を頼んだ。
青鞜社の女性たちは、いわゆる「新しい女」だった。智恵子は青鞜社の社員に名を連ねることはなかったが、旧弊に縛られないという意識は同じ。
《世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの》
画家の津田青楓に向かって、そんなふうに語っていたという。
そして、実際、親の勧める郷里の医師との縁談は断り、光太郎と生きる道を選択した。
貧しささえ誇らかで充ち足りた新婚生活
既成の社会秩序と対決するような心組みで、婚姻届も出さずにはじめた、洋行帰りの新進彫刻家とのアトリエ兼住居での共棲生活は、楽しく充実していた。互いを愛し尊重し、高め合いながら、それぞれの創作に向き合い、仕事を終えれば二人して幸せな時間に浸った。
未来に夢を描く若い二人の前では、貧しささえむしろ誇らかなものであったろう。
智恵子は、《必要以外何物も有たない事=貧乏なこと。/本能の声を無視しないこと。/どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。/赤裸なこと》(『貧しく、飾らず、単純であれ』)と決意を示し、《考えるだけで、湿(うる)おされ温められ、心の薫ずるおもいがする私達の家。二人が為事を放擲った時の私達の家庭は、まるで幸福の洪水だ》(『私達の巣』)と記した。
詩人でもある光太郎は、呼応するようにこう綴った。
《智恵子と私とただ二人で、/人に知られぬ生活を戦ひつつ/都会のまんなかに蟄居した。/二人で築いた夢のかずかずは/みんな内の世界のものばかり。/検討するのも内部生命/蓄積するのも内部財宝。/私は美の強い腕に誘導せられて/ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた。》(『美に生きる』)
しかし、飢えと向き合うほどの極貧や生活の雑事に追われながらの芸術探究の継続は、なかなか容易なことではなかった。また、智恵子は自分の描く油絵の色彩のことで苦しみ、懊悩し、しばしば自己を厳しく責めさいなんでもいた。そこに、福島の生家の破産という衝撃的な出来事が加わった。
智恵子にとって故郷・福島は、かけがえのない場所であった。愛する夫と生活しながらも、智恵子は安達太良山の上に見える青い空にいつも焦がれていた。健康のすぐれないときも、智恵子は、里帰りすることで回復してきた。ところが、生家の破産で、智恵子は帰るべき故郷を失ってしまった。智恵子の精神は病み疲れていく。
昭和7年(1932)7月15日の深夜12時過ぎ、智恵子は睡眠薬自殺をくわだてた。手当ての結果、一命はとりとめ、ひと月の入院加療で体調は元に復したが、心の病は癒えなかった。夫婦して東北の地を旅してみても、生家の破産で千葉・九十九里に身を寄せている実母のところへ智恵子を預けても、病状は改善しない。昭和9年(1934)12月、光太郎は東京のアトリエへ智恵子を連れ戻した。
この間、昭和8年(1933)8月には、周囲の願いをよそに二人してやり過ごしていた入籍を果たしている。自分にもしものことがあった時の智恵子の生活を案じての、光太郎の決断だった。
病室を新たなアトリエにして紙絵を制作
東京のアトリエに戻ると、智恵子の状態は一層深刻化した。連日連夜、何時間でもでたらめの言葉を絶叫しつづけ、時として狂暴な行為にも及ぶ。光太郎はろくろく眠ることもできない毎日。もはや万やむを得ず、とうとう翌年2月、光太郎は智恵子を東京・南品川のゼームス坂病院に入院させた。
光太郎は、のちに『智恵子の半生』にこう記している。
《彼女はやさしかったが勝気であったので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙って進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考えて、曖昧をゆるさず、妥協を卑しんだ。いわば四六時中張りきっていた弦のようなもので、その極度の緊張に堪えられずして脳細胞が破れたのである》
ゼームス坂病院は大正12年(1923)に開設された先進的な精神病院で、患者を隔離したり拘束したりせず、比較的自由な療養生活を送れるような診療方針をとっていた。智恵子の傍らには、姪で看護婦の春子が付き添った。春子は芝白金三光町の五月看護婦会に所属する一等看護婦で、光太郎は会を通じて正式な看護依頼をしたのだった。
入院して少し落ち着いてくると、智恵子は、紙絵をつくりはじめた。題材は主に花や果物。光太郎の持っていく色とりどりの色紙を、長さ7cmほどのマニキュアに使う小さなハサミでさまざまの形に切る。それを糊で台紙に貼って、美しい作品に仕上げていく。その数は千数百点にも及んでいった。ゼームス坂病院の15号室は、いつか智恵子の新たなアトリエとなっていた。
こうしてつくった作品を、智恵子は大切にしまっておいて、見舞いにくる光太郎に嬉しそうに見せた。智恵子の紙絵は、かつて彼女が油絵で到達し得なかった高い芸術性を有していた。
昭和13年(1938)10月5日、智恵子の容態が急激に悪化した。付き添っていた春子は、あわてた。
ところが、そこへ、光太郎が智恵子の好きなレモンを携えて、ひょっこりとゼームス坂病院に現れた。光太郎はまったく偶然に、ふと思い立って、見舞いに訪れたのである。困り果てていた春子は、どれほど安堵したことだろう。
光太郎の顔を見ると、智恵子は荒い呼吸の中でかすかに笑った。光太郎の差し出すレモンを待ち焦がれていたようにガリリと齧ると、その香気に心が洗われたのか、智恵子の表情は正気に帰った。そして、愛する光太郎に手をとられながら、午後9時20分、息をひきとった。死因は粟粒性肺結核だった。
光太郎はその死を、一篇の美しい詩として書き留めた。
『レモン哀歌』
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
そして、智恵子は、死後もずっと光太郎の心の中に生きつづける。
己の魂の中に宿る妻の俤と対話をつづける
智恵子没後7年を経た昭和20年(1945)10月、光太郎は岩手・花巻郊外の寒村で独居自炊の生活に入った。智恵子とともに半生を過ごした東京・駒込のアトリエは、半年前、戦時下の米軍の空襲で焼失していた。青年期から抱える北方への憧憬が、彫刻の材を求めるという現実的欲求と重なり、62歳の光太郎は東北への移住を決断したのだった。
鉱山小屋を移築した光太郎の住まいは、わずか7・5坪。屋根は杉皮葺き、周囲は粗壁と障子1枚が外界との隔て。零下16度まで気温が下がる厳冬期、吹雪の夜には寝具の肩先まで雪が降り積もった。木を削り詩を紡ぐことに没頭し無理をすれば、胸に巣くう病のため血を吐くこともあったが、光太郎はここで厳しく自己の境涯を見つめ直しながら、己が魂と肉体の中に宿る智恵子の俤と濃密な対話をつづけた。
《三畳あれば寝られますね。/これが水屋。/これが井戸。/山の水は山の空気のやうに美味。/(略)智恵さん斯ういふところ好きでせう》(『案内』)
《智恵子はすでに元素にかへつた。(略)智恵子はわたくしの肉に居る。/智恵子はわたくしに密着し、/わたくしの細胞に燐火を燃やし、/わたくしと戯れ、/わたくしをたたき、/わたくしを老いぼれの餌食にさせない》(『元素智恵子』)
やがて彫刻家の胸の奥に、智恵子の裸形を世に遺したいとの切なる思いが萌す。
《智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。/(略)智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰らう》(『裸形』)
昭和27年(1952)10月、光太郎は裸婦像の制作のため、東京へ帰る。
修行にも似た7年の歳月を過ごした花巻の陋屋は、修繕と保護を施しつつ、高村山荘としていまも従前の場所に残されている。障子に復元された日時計は、光太郎の苛烈なほど質朴なくらしを伝えて、訪れる者の胸に迫る。
念願の智恵子の裸形を刻す、青森・十和田湖畔の『乙女の像』の除幕は、光太郎70歳の秋。それから2年半後の昭和31年(1956)4月2日、光太郎の魂は都内のアトリエに置かれたベッドの上から、智恵子の待つ天上へと翔け昇った。
【主な参考文献】
『智恵子抄アルバム』(北川太一監修、高村規写真、芳賀書店)、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』(新潮社)、『詩人の妻』(郷原宏、未来社)、『文士が愛した町を歩く』(矢島裕紀彦、NHK生活人新書)
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矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com











