沢村栄治像。(写真:photoAC)

「生きて帰れたらいい父親になる」

昭和19年(1944)12月2日没。27歳。

日本でもアメリカでも、プロ野球のリーグ制覇からポスト・シーズンへと、優勝争いが佳境に入ってきている。同時に、個人タイトルの行方も気にかかってくる。今季、米国メジャーリーグで開幕から二刀流を復活させた大谷翔平は、5度目のMVPとともに、最優秀投手に贈られるサイ・ヤング賞の獲得も期待されていた。残念ながら、怪我のためシーズン途中で投手としての出場を回避し、サイ・ヤング賞獲得は来年以降の楽しみとなったが、それ以上にチームのワールドシリーズ3連覇が、今季の大谷の最大の目標だろう。

二刀流の大谷といえば、何かと引き合いに出されるのが、ベーブ・ルース。そのベーブ・ルースが現役時代の全米チームを向こうにまわして、ナイス・ピッチングを繰り広げた若き日本人投手がいた。

その名は沢村栄治。現在、日本プロ野球界の「沢村賞(沢村栄治賞)」に名を刻む戦前の名投手。「沢村賞」は米国野球でいえば、サイ・ヤング賞に相当するものである。

ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグから三振を奪う

昭和9年(1934)11月20日、静岡の草薙球場は快晴だった。この日、午後2時から日米野球の第10戦が予定されており、多くの観客が押し寄せていた。

日本チームの先発マウンドに登ったのは沢村栄治だった。相手はベーブ・ルースやルー・ゲーリッグを擁する全米チームの強力打線。ここまでの9試合で、ルースの10本を筆頭に計29本のホームランを放ち、総得点は107。1試合平均にして、実に12点弱を叩き出していた。当時の日米の野球の実力には、それだけ大きな差があったのだ。

そんな驚異的な打線を相手に、沢村のピッチングは冴えに冴え、見事な好投を続けた。左足を高々と上げる独特のダイナミックなフォームから繰り出す低めにホップするような快速球と、「三段になって落ちてくる」といわれた大きく縦に割れるカーブを武器に、6回まで失点ゼロ、被安打2、奪三振7。1回から2回にかけては、3番ルース、4番ゲーリッグを含む2番打者から5番打者まで、4者連続三振に仕留めてもみせた。

7回、ルースをピッチャーゴロに打ちとっての一死後、ゲーリッグにソロホームランを浴び、試合は惜しくも0対1で敗れたが、沢村はリリーフをあおぐことなく完投し、被安打5、与四球1、奪三振9と、ほぼ完璧といえるピッチング内容だった。沢村はこのとき、京都商業中退、弱冠17歳の若武者である。沢村の素質にすっかり惚れ込んだ全米チーム監督のコニー・マックは、試合終了後、「サワムラにその気があれば契約するよ」と申し出たという。

その快投ぶりは、全米チームに同行していた新聞記者によって、米国本土にまで報道された。

「スクールボーイ、サワムラはメジャー・リーグを完全に抑えた」

平成、令和と、時代が移り、今は「イチロー」や「オオタニ」といった名前が全米に知れ渡るが、アメリカの野球ファンが最初に覚えた日本人野球選手の名前は、間違いなくこの「サワムラ」であった。

沢村は、もともとは京都商業卒業後の慶応大学への進学を希望していた。慶大野球部監督の腰本寿が沢村の才能を見出し、京都商業を訪れて指導をしていた。腰本はバッターとしての沢村の素質にも目をつけ、右打ちだった沢村を左打ちに転向させた。慶大野球部に進めば、投打二刀流での活躍さえも期待されていたということだろう。当時の大学野球は人気、実力とも抜群のものがあった。

それが、京都商業を中退して全日本チームに参加したのには、理由があった。昭和7年(1932)3月27日、文部省は「学生選手ハ職業選手ト試合ヲ行フヲ得ザルコト」という1項を含む野球統制令を出していた。そのため、米国選抜チームと対戦する全日本チームのメンバーは、学生以外の身分の者でなければならなかった。大学野球の現役選手はもちろん出場できない。沢村も、慶大進学どころか、通学中の旧制中学を中途退学しなければ、日米野球への出場はかなわなかったわけだ。家の経済の問題もあった。沢村の家は八百屋を営んでいたが、商売は必ずしもうまくいっておらず、長男の沢村栄治を頭に7人兄弟を抱えての生活は楽ではない。慶大進学ではすぐに金は稼げないが、全日本チームに加わってそのまま職業野球入りするならば、月俸120円、支度金300円を用意するという破格の条件が提示されていた(当時の大卒新入社員の月給は50円前後)。沢村栄治本人より、交渉の窓口となった祖父が、前のめりになって内金を受け取ったと伝わる。

この決断と選択は、野球人としての沢村栄治を、一躍スターダムに押し上げた。そして、日米野球を終えて間もない昭和9年(1934)の暮れ、全日本チームを母体として職業野球の大日本東京野球倶楽部(のちの巨人軍)が結成された。沢村はそのエースとして活躍を続ける。米国遠征、実業団チームとの各地での試合などを経て、職業野球の7チーム(巨人、大阪タイガース、阪急軍、東京セネタース、名古屋金鯱軍、名古屋軍、大東京軍)によるリーグ戦が始まるのは、昭和11年(1936)秋。以降、沢村は5年の実働年数で、105試合に登板して63勝22敗、防御率1・74の公式記録を残し、三度のノーヒット・ノーランを達成している。

全盛期の沢村の投球を、味方の二塁手として後方から見ていた三原脩は、「沢村の高速球は、もし当たれば死ぬと打者に思わせる凄みがあった」と語っている。

ラスト・プレーは代打出場の3塁ファウルフライ

時代はこの頃、不穏であった。

一般国民がどんどん軍隊へ駆り出される。

沢村も、昭和13年(1938)1月10日に召集を受けて、生まれ故郷の三重県の歩兵第三十三連隊に入隊した。大学生であればまだ兵役を免れていた時期だが、旧制中学中退では兵役免除どころか士官クラスへの道も閉ざされ、最前線へ送られる宿命を負った。所属部隊76人中56人が戦死するという中国・大別山麓の激戦地で、沢村は左の掌を撃ち抜かれた。

2年3か月後に満期除隊となるが、昭和16年(1941)10月15日に再び召集。その2か月後の12月8日、真珠湾攻撃が敢行され、アメリカ軍とも戦闘状態に突入した。南方での過酷な日々にも命をながらえ帰国したのは、昭和18年(1943)1月11日だった。

この間も、軍隊から戻ると、沢村は野球を続けていた。だが、軍隊生活で体を壊し、往年の球威はすっかり影をひそめていた。それでも1度目の復帰では、技巧を生かした投球で3度目のノーヒット・ノーランを達成することができた。が、二度目の応召を経て、さらに体はぼろぼろになる。投球フォームも右肩が下がって横手投げのようになり、思うようなピッチングができないまま、投手生命は終焉していく。

昭和18年(1943)7月6日の対阪神戦に先発し、3回5失点で途中降板したのが悲運のエースのラスト・ピッチ。同年10月24日の対阪神戦の延長11回、一死1、2塁の好機に代打で出場、サード左へファウルフライを打ち上げたのが、沢村の野球人生におけるラスト・プレーとなった。

昭和19年(1944)10月2日、沢村のもとに三度目の赤紙が届いた。戦争という狂気は、ついに日本野球界の至宝を戦死するまで解放しようとしなかった。

11月13日、京都・伏見連隊に入営。12月1日、沢村が乗り込んだ輸送船は門司港からフィリピンを目指し出航した。その航海の途中、屋久島西方の東シナ海で輸送船が沈没、沢村も暗い海へ呑み込まれていった。12月2日、午前4時30分であった。

かつて野球の日米決戦では、オーバースローから繰り出す速球で敵をきりきり舞いさせた沢村が、米軍潜水艦(サブマリン)の魚雷攻撃によって生命を絶たれたのである。沈みゆく暗い海の中で、沢村の頭の中に、ベーブ・ルースを三振に仕留めた誇るべき投球がよぎる一瞬があったかどうか――。

沢村は昭和16年(1941)5月に、実業家の娘と結婚して一子(娘)をもうけていた。妻への最後の手紙には、「生きて帰れたらいい父親になる」と書かれていたという。

巨人V9の川上哲治は沢村の遺族にバットを贈っていた

はるか時がめぐり、昭和49年(1974)11月20日、かつて沢村が米国チーム相手に快投を見せた静岡・草薙球場で、前年の米国大リーグのチャンピオン、ニューヨーク・メッツと巨人との対戦が行なわれた。後楽園球場における「ミスター・プロ野球」長嶋茂雄の引退メッセージから1か月、これが長嶋が現役選手として出場する最後の試合で、同時に川上哲治が監督として采配をふるうラスト・ゲームであった。

現役時代の川上は、実働18年で2351安打、通算打率3割1分3厘。「球が止まって見えた」という伝説的逸話を持ち、「打撃の神様」の異名を冠された強打者だった。監督就任後は、『ドジャースの戦法』という1冊の本を基礎にしてチームをつくり上げ、日本シリーズ9連覇(V9)という不滅の記録を達成した。

沢村栄治は、そんな川上にとっても、短期間ではあったが同じチームでプレーした偉大な先輩だった。川上自身も召集され軍隊入りしたが、外地へ赴くことはなかった。しかし、熊本工業学校(現・熊本工業高校)で、投手だった川上とバッテリーを組み、一緒に読売巨人軍に入団、捕手として沢村の投球を受けた吉原正喜は、ビルマからインパール作戦に従軍し不帰の人となっている。

川上はこうした先輩や同輩たちの思いもくんで、戦後、野球を続けてきた。川上がよく口にした「一球入魂」とはそうした鎮魂の意味でもあり、「報恩感謝」とは野球ができることの平和と幸福を、感謝の思いとともに噛みしめることでもあった。

川上は親友だった吉原正喜のため、巨人の監督就任まもない昭和37年(1962)、球団の協力を得て、熊本の本妙寺に「野球の権現 吉原選手之碑」を建立した。

一方で、沢村の遺族のもとには、終戦後ほどなく、川上のバットが届けられていた。私はそのことを、近年になって、「川上V9」の足跡を追った単行本執筆の取材過程で、久しぶりに訪れた野球殿堂博物館で偶然に知った。

そのバットには川上の他、三原脩、千葉茂、多田文久三、内堀保、平山菊二のサインが書かれていた。いずれも当時の巨人で活躍した選手たちで、サインには沢村への哀悼の意と遺族への励ましの思いが込められていたことは疑問の余地がなかった。

平成20年(2008)になって、沢村の遺族から野球殿堂博物館にこのバットが寄贈され、いままで語られることのなかったその事実が明らかになったのである。

東京ドーム内に設置されている同博物館からの帰途、私は近くに建立されている「鎮魂の碑」の前に足を運んだ。そこには、沢村栄治や吉原正喜をはじめ、ルソンで戦死したという大阪タイガースの景浦将、鹿児島の鹿屋航空基地から特攻機で出撃した名古屋軍の石丸進一ら、戦没野球選手の名前が刻まれている。

【主な参考文献】
『沢村栄治とその時代』(北原遼三郎、東京書籍)、『沢村栄治 裏切られたエース』(太田俊明、文春新書)、『戦場に散った野球人たち』(早坂隆、文藝春秋)、『兵隊になった沢村栄治』(山際康之、ちくま新書)、『石橋を叩いて豹変せよ』(矢島裕紀彦、NHK出版)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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