
「恩師高橋先生のお墓のそばに葬ってくれ」
伊能忠敬 文政元年(1818)4月13日没。73歳
伊能忠敬といえば、江戸時代後期に、実測によるはじめての科学的な日本地図を作成した人物として知られる。その仕事は、隠居後、55歳から第二の人生をかけて成し遂げられたものであった。
延享2年(1745)、上総国山辺郡小関村(現・千葉県九十九里町)の生まれ。生家は、名主で網元でもあった小関家で、父は貞恒、母はミネ。幼名を三治郎と名づけられた。6歳のとき、母が逝去。近郷の小堤村の神保家から婿入りしていた父は、離縁となって里に帰り、やがて三治郎も父のもとに引きとられた。
最初の転機は宝暦12年(1762)に訪れる。上総国佐原(現・千葉県香取市)の豪商で名主をつとめる伊能家の当主が早世し、跡継ぎ娘のミチに婿をとらねばならなくなった。そのとき婿に選ばれたのが、17歳の三治郎だった。
間に立ったのは、伊能家と姻戚関係にあり、神保家ともつきあいのあった平山藤右衛門だったという。伊能家と家格を合わせるため、三治郎はいったん平山家の養子となり、江戸幕府の儒学者・林鳳谷から「忠敬」の名を授かって、婿入りをした。「伊能忠敬」の誕生である。
伊能家は酒造、水運などの商いを営み、大地主でもあった。婿入りした忠敬は、熱心に家業に勤しんだ。米穀の売買や貸金業、江戸深川に薪炭問屋を出すなど商いを拡大し、家産は大きく上積みされていく。
一方で、忠敬は、家庭人としては悲しい体験を重ねている。結婚後、4歳年上の女房ミチとの間に一男二女をもうけたが、天明3年(1783)、ミチは病没してしまう。その後、内縁の妻(番頭の娘ともいわれる)を得るが、またも死別。45歳の折に三人目の妻として仙台藩医・桑原隆朝の長女ノブを迎えるのだが、このノブも、もともと体が弱かったようで、5年後に病死してしまうのである。
忠敬が46歳の頃、引退を視野に入れて、書き記した3箇条の家訓がある。
《第一 仮にも偽(いつわり)をせず孝弟忠信にして正直たるへし
第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらハ急度(きっと)相用(あいもちい)堅く守るへし
第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛裕ニ諸事謙(へりくだ)り敬(つつし)ミ少も人と争論など成(なす)べからず》
つまりは、嘘偽りをせず正直であれ、目下の者の意見でも良いものは採用せよ、謙譲と寛容を大切にし喧嘩争論などするな、というのである。
ここには、忠敬の実直にして厳格な性格が反映している。忠敬は商売の傍ら佐原村本宿の名主や村方後見をつとめ、大洪水による飢饉の折には救恤米を出して窮民を助け、堤防の修築に取り組んで治水にも功績を上げた。佐原の領主の津田氏から、苗字帯刀を許された所以である。
師匠から「推歩先生」とあだ名される
そんな忠敬が長男に家督を譲って隠居の身となったのは、寛政6年(1794)、49歳のときだった。翌年、佐原を出て、江戸の深川黒江町に隠宅を構え、幕府天文方の高橋至時(よしとき)に入門した。暦学と天文学を修得するためであった。
幕府の天文方は、仙台藩出身の若年寄堀田摂津守正敦の支配下にあり、亡くなった忠敬の3番目の妻ノブの父が仙台藩医であったことが、この入門につながったと推測される。高橋至時は年齢的には忠敬より19歳年少だが、当代一流の天文学者。その教えを受けることに忠敬には何ら躊躇はなく、むしろ感謝と光栄の思いがあった。
忠敬は伊能家で商才を発揮し、隠居時には3万両もの資産を蓄えていたという。隠居後に自身で使える小遣いもふんだんにあった。また、忠敬は学問好きで、早くから天文や暦学の書物を収集していた。屋敷には5000冊の書物があったといわれる。高橋至時のもとに入門したときは、すでにして基礎となる中国の天文学・暦学を独修していたため、はじめから高度な西洋の天文学を教授されることになった。
忠敬は高橋至時のもとで学びながら、黒江町の隠宅に本格的な天文観測装置をしつらえた。それを駆使して、くる日もくる日も、熱心に天文観測を行なった。その熱意と根気に感嘆した師から、「推歩先生」のあだ名を送られるほどであった。
こうして西洋の天文学を修養するうち、忠敬の中に、新たな願望が芽生えた。それは、「地球の大きさを知りたい」という、少年の夢を思わせるような願望であった。
忠敬は、はじめの一歩として、黒江町の居宅から浅草の鳥越神社の東側にある暦局まで、歩測と羅針により方位角と距離を算出、子午線一度の長さに換算し、師匠に報告した。これを360 倍すれば、地球1周分の距離となる理屈であった。
すると師匠は、このような短い距離では誤差が大きくて問題にならない、少なくとも蝦夷地までの距離を測るくらいでなければ駄目だ、と語った。この対話が、その後、足かけ17年、10次にわたる全国測量に結びついていくことを、忠敬自身、まだ知らない。
将軍・徳川家斉も忠敬の地図に感心する
忠敬は高橋至時の助力を得て、蝦夷地測量計画を作成し幕府に提出した。これが許されて、忠敬に対し「測量試みの為め蝦夷地に遣わす」という御沙汰書が出た。当時、幕府は北方における異国船の出没に神経をとがらせていた。蝦夷地の測量と地図の作成は、海防的観点から意義があると受けとめられたのだろう。
御沙汰書には、手当てとして「一日銀七匁五分」を支給するとも記されていた。これは現在なら2万円弱程度という。支給されるのは忠敬ひとり分だけで、行動をともにして仕事をする門弟や従者たちの手当てはない。この段階では、元百姓浪人の伊能忠敬が幕府の許しと補助を得て測量を行なうという、あくまで、個人主体の事業であった。
寛政12年(1800)閏4月19日、55歳の忠敬率いる測量隊は、富岡八幡宮に参詣して道中の無事を祈願。浅草の高橋至時に挨拶をして、千住から奥州街道を下り、蝦夷地を目指した。手には羅針盤をつけた杖を持ち、歩幅69センチの歩みを一歩一歩進めていく。江戸に帰り着いたのは半年後の10月21日。地図を作成して幕府に提出すると評価は高く、さらに測量を続けよということになった。
第2次測量は伊豆から三浦、房総、本州東海岸、第3次測量は羽越地方、第4次測量は東海から北陸・佐渡・越後と、忠敬と測量隊の旅は続いていく。幕府の支援も次第に手厚さを増した。
こうして4年かけて東日本の測量を終えた忠敬は、地図(日本東半部沿海地図)にまとめて幕府へ提出した。時に文化元年(1804)、忠敬59歳。江戸城大広間に広げられた地図は、出来栄えが素晴らしく幕閣を大いに感心させ、時の将軍・徳川家斉の台覧に供されたという。
結果、西日本の測量も実施すべしとのお達しとなり、忠敬は幕臣に取り立てられた。測量経費も幕府の負担となり、天文方の下役が測量隊に加わることとなった。
喜ばしい成果の陰に、悲しい出来事もあった。同じ年(文化元年)、師の高橋至時が病没してしまった。至時は肺を病みながら、最先端の天文書『ラランデ暦書』の翻訳に打ち込んでいて、過労のため命を縮めたと言われる。
西日本の最初の測量となる第5次測量は紀伊半島、中国、第6次測量は四国、大和路、第7次と8次では九州を測量した。これで離島を含めて日本本土の測量をほぼ終了するのだが、西日本は東日本に比べて海岸線が複雑で、予期していたよりはるかに多くの時日を要した。3年程度との目算が10年かかり、忠敬はもはや69歳となっていた。
この間の労苦は相当なものだった。
忠敬はもともと頑健な体質ではなかった。喘息の持病があり、旅先で瘧(おこり=マラリア)を発症して寝込んでしまうこともあった。歯も悪かったらしく、江戸で留守を守る長女への私信に、「歯は一本だけになり、時々痛み、奈良漬も食べかねている」と弱音を吐いてもいる。一方で、現地の役人との軋轢があったり、測量隊員の不始末で幕府から叱責されたり、測量隊の副隊長が長崎・五島で病死する不幸もあった。
喪を伏せたまま続けられた地図づくり
忠敬70歳の年に実施された伊豆七島の測量(第9次測量)では、年齢からくる体力の衰えが顕著で、周囲が心配し、忠敬は参加を見送った。実際、このときの測量は、八丈島の測量を終えたあと3日3晩海の上を漂流するなど、文字通り命がけの過酷さであった。
第10次測量は、これまで1次から9次までに蓄積された測量データを、江戸府内でつなげるためのもので、忠敬も孫の忠誨(ただのり)をともない老躯を押して一部に参加している。忠敬は、こうして測量に打ち込む自身の後半生を「天命」ととらえていた。
10次にわたる全国測量を終えると、忠敬らは地図(「大日本沿海輿地図」)の仕立てに取りかかった。すでに下図の作成は折々に進められていて、黒江町の隠宅では作業には手狭なため、忠敬は文化11年(1814)に八丁堀亀島町(3番目の妻ノブの父・桑原隆朝の屋敷跡)に移り住み、そこを地図御用所にあてていた。
地図作成の作業も容易ではない。
その手順をごくかいつまんで述べると、まず地域ごとに下図をつくり、これをつなげて15里から20里の寄図を作成。この寄図を清書用の和紙に謄写して測線を描き、測量現場でのスケッチや収集した資料に基づいて山、川、海岸、地名、城郭、寺社などを書き入れて大図(3万6000分の1)を作成するのである。一方で、寄図の測線を縮小・集合し、天文観測の成果を取り入れて補正し、中図(21万6000分の1)、小図(43万2000分の1)も仕立て上げていった。
懸命に地図の作成に取り組む中、忠敬の体の衰えはいよいよ進んでいく。文政元年(1818)4月13日、八丁堀亀島町の自宅で逝去。73歳だった。残された門弟と天文方下役による地図作成は、その喪を伏せたまま続けられた。
「大日本沿海輿地図」が完成するのは忠敬の死から3年後。高橋至時のあとを継いでいた天文方高橋景保(至時の子息)と忠敬の孫の伊能忠誨が登城して、完成した地図を幕府に提出したあと、忠敬の死が公にされた。
忠敬は死を目前にして、「恩師高橋先生のお墓のそばに葬ってくれ」と遺言していたという。そこまで深い思慕を寄せる師と出逢えた忠敬は、幸福だったと言えるだろう。遺言通り、忠敬の遺骸は浅草源空寺の師の墓の傍らに葬られ、爪と髪は佐原にある菩提寺・観福寺に埋葬されたという。
【主な参考文献】
『別冊太陽 伊能忠敬』(星埜由尚監修、平凡社)、『長久保赤水と伊能忠敬の二度咲き人生』(岡村青・共栄書房)、『人間臨終図鑑』(山田風太郎、徳間書店)、『サライ』2008年12月号
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矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com











