文/晏生莉衣

「永遠のベストセラー」といわれ、近年、売上増加が続いているという注目の聖書。今回取り上げる旧約聖書の「詩編」は、神への信仰を詩の形で表現した文学書で150の詩から成ります。「詩篇」と表記されることもあります。
詩編はむずかしそうな旧約聖書の中にあって、作品鑑賞をするようにリラックスして読めるのが魅力です。神への賛美や感謝はもちろんのこと、悲しみや苦悩、孤独、後悔といった人間が抱くネガティブな感情が率直に告白されている詩も含まれていますので、さまざまな心情の祈りに触れることができます。
神への信頼が心に響く詩
その中でもよく知られ、親しまれている詩としてまずあげられるのが詩編23です。
「主(しゅ)は私の羊飼い。私は乏(とぼ)しいことがない」(1節)
始まりのこの節では、神を羊飼いにたとえて語っています。当時、羊飼いは、羊の群れを牧草地や水場へ導いて世話をしながら、野獣などの危険から守っていました。羊からすれば、羊飼いがいなければ生きていくことはできなかったのです。
そうした関係を神と自分に重ねた素朴な語りには、「神が自分を導き守ってくださっていて、自分には必要なものが常に与えられている」という、神に抱く親密な信頼が込められています。
大変牧歌的なイメージが浮かびますが、この詩が詠っているのはそれだけではありません。
「たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない」(4節)
羊飼いに導かれる羊は、いつも緑の牧草地にいるわけではなく、切り立った崖や危険な谷を通って移動しなければならないこともあります。そんな危険な道を歩むときでも、羊飼いについていけば大丈夫。羊はそんなふうに信じているかのように羊飼いにしたがっていきます。
それと同じく、自分も人生の中で苦難や死の恐怖に襲われるような状況に立たされることがあっても、神がともにいてくださるから恐れることはない……。この節では、そうしたゆるぎない神への信頼が告白されています。
安らぎのときも困難なときも、人生のあらゆる局面で神はともにいてくださる。そう美しく詠う詩編23は、6節から成る短い詩ながらもキリスト教文化圏において多くの人々を励まし、勇気づけてきました。
映画のセリフになった詩編
クリスチャンがふと口ずさむ。そんな存在として愛されてきた詩編23ですが、この詩はクラシック音楽にもなっています。シューベルトはこの詩のドイツ語訳を使って美しい合唱曲を作曲しました。
また、この詩は古典作品だけでなく、時代を超えて20世紀のエンターテインメントにもたびたび使われています。
映画では、モノクロの名画『我が谷は緑なりき』(原題:How Green Was My Valley, 1941)、2020年代に修復版が再公開された『エレファント・マン』(原題:The Elephant Man, 1980)、レオナルド・ディカプリオ主演の話題作『タイタニック』(原題:Titanic, 1997)など。シナリオは違えど困難の中にある登場人物が詩編23を唱える場面があります。
ポピュラーソングでも歌われている
さらに、詩編はこの詩編23以外にも音楽の題材として広く用いられています。バッハ、ヘンデル、メンデルスゾーンなど、クラシック音楽の大家が詩編に旋律をつけた宗教曲を数多く作曲してきたのはもちろんのこと、現代のポピュラーミュージックにも詩編を取り入れた曲があります。
日本でもよく知られた2つの作品を紹介しましょう。
☆『Rivers of Babylon』(詩編137、詩編19)
1970年代後半のディスコブームの中で大ヒットしたボニーM(Boney M.)の『バビロンの河』(原題:Rivers of Babylon, 1978年)です。ジャマイカのレゲエグループ「メロディアンズ」(The Melodians)の楽曲のカバー曲で、詩編137と詩編19が取り入れられています。
“By the rivers of Babylon,
there we sat down,
yea, we wept,
when we remembered Zion”
(バビロンの川のほとり、私たちはそこに座って、シオンを思い出して泣いた)
この詩編137の1節が曲の歌い出しにほぼそのまま引用されています。「バビロン捕囚」(レッスン47参照→https://serai.jp/living/1273070)によって故郷を追われ、異国の地へ連行された人々の嘆きと祈りを歌っています。バビロン捕囚の苦難を詠った古代の詩がジャマイカのレゲエを経てディスコソングとなったユニークなケースです。
☆『40』(詩編40)
世界的ロックバンドU2のヒット曲で、1983年のアルバム『War』の最後の曲として収録されています。ヴォーカルのボノ(Bono)は、次の詩編40の始まりの節をほぼそのまま歌詞にしてこの名曲を完成させました。
“I waited patiently for the LORD;
And He inclined to me and heard my cry.
He brought me up out of the pit of destruction, out of the miry clay,”
(私は忍耐深く主を待ち望んだ。主は身を乗り出して私の叫びを聞いてくださった。主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げてくださった)
ボノはアイルランド人で、20世紀後半に激化した北アイルランド紛争を身近な危険として肌で感じながら育ちました。その生い立ちから芽生えた信仰心を大切にしているボノは、曲作りにキリスト教の世界観や聖書の言葉を取り入れることがよくあります。
『40』が収められているアルバム『War』は、北アイルランド紛争の流血劇を歌った『Sunday Bloody Sunday』をはじめ、核戦争への恐怖や社会の分断など、非常に重いテーマを扱っていますが、ボノはこのアルバムでも、しめくくりの曲を作るにあたって詩編を取り入れるというアイディアを思いついたと語っています。そうして生まれたのが、「どれほどの底知れない闇におちいっても、神からの救いがあるという希望をもって、授けられた新しい歌を歌う」という静かながらも力強いメッセージソング『40』です。
“new song” =「新しい歌」には、宗教的、政治的対立などを克服した新しい平和な時代に向かうというような希望が込められていると感じられますが、U2は、「どれだけこの歌を歌い続ければそうした平和が来るのだろうか?」と、平和を切望する思いをリスナーに投げかけるかのようにこのフレーズを繰り返します。
アルバムがリリースされてから40年以上たってなお、この歌は歌われ続けています。U2が2023年から2024年にかけてラスベガスで行ったロングラン公演の最終日のフィナーレでこの曲が演奏され、会場全体が大合唱に包まれました。
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詩編に収められた古代の祈りの言葉は、時空を超えて現代の私たちの世界にも伝えられています。旧約聖書の詩編なんて読んだこともない。そう思っている方も、それとは知らずに見たり聞いたりしていることがあるかもしれません。
<注>
・詩編23、1節、4節の訳は日本聖書協会の『聖書協会共同訳 聖書』を使用。口語訳や文語訳などでは「羊飼い」ではなく「牧者」と訳されることがあります。
・詩編137、1-4節(Psalm 137:1–4):King James Version (KJV)
・詩編40、2-3節 (Psalm 40:2–3):Scripture quotations taken from the New American Standard Bible(R), Copyright (C)1977 by The Lockman Foundation. Used by permission. All rights reserved.
※本記事の画像はCanvaの無料素材を利用して作成しています。
文/晏生莉衣(あんじょう まりい)
教育学博士。国際協力専門家として世界のあちらこちらで研究や支援活動に従事。国際教育や異文化理解に関する指導、コンサルタントを行うほか、平和を思索する執筆にも取り組む。著書に、日本の国際貢献を考察した『他国防衛ミッション』や、その続編でメジュゴリエの超自然現象からキリスト教の信仰を問う近著『聖母の平和と我らの戦争』。







