
「コレデオシマイ」
明治32年(1899)1月19日没。数え77歳(満75歳)
先頃、脚本家の倉本聰さんが亡くなった。
倉本さんは昭和49年(1974)、NHK大河ドラマ『勝海舟』の脚本執筆中、現場スタッフとの衝突から居たたまれなくなり羽田から札幌へ飛んだ。札幌のホテルでしばらくは脚本を書き続けていたが、NHK側が新たな脚本家を立て、自身も病に倒れ、結局は途中降板。このことがきっかけとなり倉本さんはその後、北海道・富良野に移住し、やがて名作『北の国から』が生まれることになる。
ふと西郷隆盛の詩の一節を思い起こす。
「人世の浮沈は晦明に似たり」
慶応4年(1868)3月13日、勝海舟は江戸芝高輪の薩摩藩邸を訪れ、西郷隆盛との会談に臨んだ。江戸無血開城へ向けての談判をするためであった。そこには、徳川慶喜の助命や徳川家の存続といった条件が付されている。海舟は慶喜を主君とする幕府方を代表し、西郷は錦旗を掲げる東征軍大総督府(薩長を中心とする官軍方)の事実上の総参謀の立場にある。官軍は3月15日を江戸城総攻めとして江戸各地に集結しようとしており、先に山岡鉄太郎を通じて書簡を渡し下交渉してはいるものの、ぎりぎりの折衝であった。
3月13日はまずは予備的な会談で、静寛院宮(「公武合体論」により徳川十四代将軍家茂に嫁いだ皇女和宮)の身の安全のことなどが話題となり、本格的な話し合いは翌14日、田町の薩摩の別邸(近くの橋本屋というしもた家だったとも言われる)で進められた。
時に、海舟46歳、西郷42歳(ともに数え年)。
最晩年の談話筆記『氷川清話』の中で、海舟はこう回想している。
《あの時の談判は、実に骨だつたヨ。官軍に西郷が居なければ、談(はなし)はとても纏まらなかつただろうヨ。(略)いよ/\談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。『いろ/\むつかしい議論もありませうが、私が一身にかけてお引受けします』西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ》
《西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。(略)この時に際して、小籌浅畧を事とするのはかへつてこの人のために、腹を見すかされるばかりだと思つて、おれも至誠をもつてこれに応じたから、江戸城受渡しも、あの通り立談の間に済んだのサ》
文中、「江戸百万の生霊」とは江戸に暮らす庶民のこと。いったん戦となれば、一般市民が巻き込まれ多くの命と財産が失われる。お互い、至誠と胆力とを持って臨んだ海舟と西郷のこの会談が、その悲劇を未然に防ぐための、大きく重い扉を押し開けたのである。
もちろん、実際には、事はそう単純ではなかったろう。たとえば、海舟は「決裂」という最悪のシナリオをも想定し、別の手立ても講じていた。
かねてから付き合いのある町火消しの親分や、博徒の親方などに意を通じ、いざとなれば町に火を放って官軍相手にゲリラ戦を展開することも考えていたという。その際、江戸市民の生命財産を守るための逃げ道として、海から千葉・神奈川の沿岸地帯へ退去させようと、房総の海岸にある大小の船をことごとく借り上げていた。江戸の川々に小船を導き入れて民を救い出し、大船へと乗り換えさせて避難させようという算段だった。
海舟はさらに、いざとなったら、慶喜を亡命させるべく、イギリス公使パークスにも話をつけている。イギリスはもともと薩摩に好意的であったが、前将軍である徳川慶喜が恭順の姿勢を示し謹慎している今となっては、これを飽くまで討たんとするやり方には賛同しかねるという考えを持っていた。
徳川十四代将軍家茂に引き立てられる
勝海舟は文政6年(1823)、勝小吉とのぶ夫妻の長男として、江戸本所に生まれた。麟太郎と名づけられた。小吉は幕府の御家人だが貧窮暮らしで、勝家では正月の餅を親類からもらうこともあったという。
こんな逸話が伝わる。ある日、よく当たると評判の関川讃岐という人相見が、麟太郎少年を観て言った。
「この子は端正な顔つきで、女の子のようだが、左眼が重瞳(かさねひとみ)になっていて、眼に光があり、非凡な所がある。将来、大きくなって、悪くいけば天下を乱す者となるか、善くいけば乱れた世に天下を救う者となるか、どちらかであろう」
若い頃の海舟は剣術や禅に熱中。浅草の島田虎之助道場で直心影流の免許皆伝を受けている。さらに蘭学を修めて蘭学塾を開き、鉄砲鋳造の研究にも取り組んだ。
嘉永6年(1853)のペリー来航時、幕府に海防意見書を提出して、海防掛目付の大久保忠寛(一翁)の目にとまり、下田取締掛手付に登用された。その後、長崎海軍伝習所の開設にあたり伝習生監として長崎に派遣され、蒸気船の操縦技術を身につける傍ら、外国人との接触を通して、近代国家の観念とでも言うべきものに目覚めていった。
万延元年(1860)、幕府は日米修好通商条約を批准するため使節団を渡米させる。数え年38歳の海舟はこのとき、蒸気船咸臨丸の指揮官として太平洋を渡った。サンフランシスコ滞在中は、造船所、製鉄所、砲台などを見学したが、それ以上に海舟の心をとらえたのは、現地の身分制度によらない能力主義だったかもしれない。帰朝ののち、老中に「何か眼をつけたことはあったか」と問われた海舟は「アメリカでは、政府でも民間でもおよそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思います」と答えたと伝えられる。
帰国後、天守番頭格から軍艦奉行並に昇進し、将軍家茂と同船する機会に恵まれ、家茂の信頼を得て引き立てられた。家茂の許しのもと、元治元年(1864)、海舟念願の神戸海軍操練所が開設され後進の育成にあたる。ここには海舟の私塾としての海軍塾も併設され、幕臣のみならず、土佐出身の坂本龍馬や紀州の伊達陽之助(のちの外相・陸奥宗光)、薩摩の伊東四郎(のちの海軍大将・伊東祐亨)らが学んだ。
ところが、海舟の先進的な考え方は頭の堅い幕閣には疎ましかったのか、その後、塾は「激徒の巣」との嫌疑をかけられて免職に追い込まれる。海舟は江戸に帰り読書三昧の日を送るが、1年半ほどで呼び戻され、第2次長州征伐が不調に終わると停戦交渉を任された。慶応3年(1867)10月、家茂急逝(慶応2年7月20日没)のあと将軍職に就いていた徳川慶喜が大政奉還を奏すが、鳥羽・伏見の戦いが起こり幕府軍は敗れた。慶喜は大坂城を退いて江戸へ戻り、やがて海舟と西郷の会談へと至っていく。
「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」
江戸城明け渡し後、徳川慶喜は江戸を離れ、水戸から駿府(静岡)へと移った。多くの家臣がこれに付き従った。海舟の家族も駿府へ移り住むが、本人は何かと新政府に呼び出され、江戸から改称された東京と駿府を行き来しながら、さまざまな始末に追われた。
明治5年(1872)春、海舟は妻子を連れて東京に戻り、赤坂氷川町に居を構えた。同年、海軍大輔に任ぜられ、従四位に叙せられる。翌年、参議兼海軍卿。明治8年(1875)4月、元老院議官を任ぜられるが即日辞表を提出し、11月に依願免官となった。以降は表立った一線の活動から身を退き、氷川町の隠居となり、旧幕臣たちを支援する隠れた苦心や多くの来客への対応、著述に力を入れた。
明治20年(1887)、宮内省の賞勲局より子爵に叙すという内命があった。海舟は、
「今までは人並(なみ)の身(からだ)と思ひしが
五尺に足らぬししやくなりとは」
という江戸っ子らしい狂歌でシャレのめし、辞退の意をあらわした。自身の身長はまあ人並みの5尺ほどだが、与えようという爵位は、その5尺にも足りない4尺(子爵)だとさ、というわけである。伊藤博文らが説得し、海舟にも思い直すところがあり、結局、伯爵に叙せられた。
翌明治21年(1888)4月、枢密顧問官に任ぜられ、10月、正三位にのぼった。明治22年(1889)、憲法発布の年の12月、勲一等瑞宝章を賜る。明治27年(1894)、従二位に叙せられる。高位高官にのぼったと言っていい。
明治維新から四半世紀を経た明治25年(1892)1月、赤坂氷川町の海舟のもとに、福沢諭吉から1通の書状が届いた。中に手紙とともに、『瘠我慢(やせがまん)の説』と題する前年11月末頃に書き上げた草稿が同封されている。読み進めていくとその草稿は、海舟への痛烈な批判文であった。
《国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言ふ可き限りに非ず。(略)然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自から自家の大権を投棄し、只管(ひたすら)平和を買はんとて勉めたる者なれば(略)立国の要素たる瘠我慢の士風を傷(そこな)ふたるの責は免かる可らず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。此を典して彼を買ふ、其功罪相償ふや否や、容易に断定す可き問題に非ざるなり》
《然りと雖も勝氏も亦人傑なり、(略)此点に就ては我輩も氏の事業を軽々看過するものにあらざれども、独り怪しむべきは、氏が維新の朝に曩(さ)きの敵国(薩長)の士人と並立て得々名利の地位に居るの一事なり》
海舟の進めた江戸無血開城は、古くからの武士の気風である瘠我慢の大義を害したものに他ならない。鳥羽伏見の敗戦で江戸に逃げ帰っても、なお、力を尽くして幾度でも再挙をはかり、それでもいよいよ駄目ならば、城を枕に討ち死にすれば、瘠我慢の主義を全うすることができたのだ。瘠我慢は「古来日本国上流社会にもっとも重んずるところの一大主義」で、その精神を受け継ぐことが世界の大国に抗していく原動力にもなる。無血開城が多くの市民の生命財産を救ったことは認めるが、それは瘠我慢の精神を踏みにじった大罪に比すれば遙かに小さいのではないか。福沢はそう主張するのである。さらに福沢は、海舟が新政府の寵遇を甘んじて受けているのを、恥ずべきことだと糾弾する。
福沢は草稿に添えた書簡に、こうも言う。
自分の本心はみだりに他を攻撃して楽しもうとするものではない。ただ多年胸にある釈然としない思いを世論に訴え、後世のためにしようとするまでのこと。反論があればお聞かせ願いたい。
海舟は、しばらく捨て置いていたが、福沢からの催促がましい手紙の再来に筆をとる。
《行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せずと存候》
自身の出処進退は、どこまでも自分自身の責任にある。他から褒められようが批判されようが、それは自分のあずかり知らぬところである。世間に公表されても異存はない。
この言葉の裏には、こんな含みがあったろう。
「幕府瓦解の折、貴兄は何をしていたのか。意見書のひとつも表さず、本所あたりに身を隠していたのではないか。だが、俺は貴兄を批判しようとは思わない。貴兄の行蔵は貴兄に存すさ」
実際、福沢は、江戸で戦が起これば、荷物をまとめ逃げなくてはならないのでおろおろしていたと、『福翁自伝』で語っている。維新後、新政府に出仕せず、民間の一学者、批評家として通したといっても、その首尾一貫は傍観者のものであり、「瘠我慢」の大義と一致するものではない。
海舟がどれほどの忍従と孤独を抱え、命がけで(実際何度も刺客に襲われている)苦心惨憺し事に当たってきたかは、到底、傍観者の理解し得るところではない。海舟はそれを知っている。
「福沢は学者だからネ。おれなどの通る道とは違うよ」
そんなふうに語っていた。軽侮して言うのではなく、歩く道が違うのである。
海舟と福沢は知らぬ仲ではない。福沢も咸臨丸に乗って共に渡米している。また、海舟日記(明治11年4月11日)には《福澤諭吉、学校の云々内談》との記述も見られる。この日、慶応義塾の運営に資金的に窮した福沢が、氷川町の海舟のもとに相談に来たのだ。海舟は黙って福沢の話を聞いていたが、やがて、こんなふうに言ったらしい。
「君が赤心から国家のために事業をやるということならば、どうして自らの資産をすべて吐き出し、そののちなお不足があらば政府から借り受けようとはしないのか。それが本筋だと、俺は思うんだがね」
まずは自分の資産を投じる覚悟を持つべき、と軽く突き放したわけだ。福沢は、三田に1万3千数百坪という広大な土地を、500数十円で払い下げを受け、私有地としていた。
旧幕臣を支え、徳川慶喜の宮城参内を実現する
海舟の艱難辛苦は、何も、江戸城無血開城前後の短期間のものではない。海舟は『氷川清話』でこう語っている。
《江戸を明渡したから、夫(それ)で治まるなどと云ふことがあるものか。畢竟、おれが苦学の結果で、三十年、かうなつて居るではないか》
海舟の言う「苦学」とは、さまざまな気遣いである。海舟は徳川の没落士族の救済に、目に見えない努力を重ねていた。盆暮れには、金銭を包んだ紙包をいくつもこしらえて出かけ、見舞いがてら旧士族に配って歩いたという。氷川の海舟邸には士族の借金申込みが群れをなしていたとの話もある。
海舟はこうしたことを、目立たぬよう、実行していた。そうすることによって国内の和を少しでも維持しよう、と考えていた。
もっとも危うかったのは、明治10年(1877)の西南戦争のときだったろう。西郷を担いだ薩摩に呼応して、旧幕府の一団が兵を挙げるような事態になったら、日本中が泥沼の内乱に巻き込まれ分断し、恨みが生じる。欧米列強は必ずやそこに乗じてくるだろう。
『氷川清話』にはこうある。
《明治十年の時などは、毎晩々々出て、十二時頃に帰つたほどだ。古道具屋をひやかしたり、古着屋で買つたり、アチラにやり、コチラにやりして、平和を維持した。どうして、警視などで、行くものか》
海舟は資金を懸命にやりくりして、旧幕臣たちを支援・統率し、官と薩との中立的立場にあることを維持したのである。旧幕臣からは、叛乱軍に走る者も、警視庁抜刀隊に参加する者も皆無であったという。
こうしたことを継続的に実行していくために、海舟は明治政府の体制内に入りこんでいることが重要だった。だから、海軍卿にもなり、枢密顧問官にもなった。役職や位階が高ければ高いほど、旧幕臣グループに対する統制力は強まり、抑えがきくのは自明の理であった。
一方で、海舟の中には、「朝敵」「逆賊」とされた旧主慶喜の復権への思いがある。慶喜とは個人的にはウマが合わなかったようだが、朝廷と徳川将軍家との和解は、真の国内融和と「近代国家の建設」につながっていくとの希望も抱いていたのだろう。
評論家の江藤淳は著書『海舟余波』の中で、《幕府をも薩長をも越えた近代国家日本の建設が、彼(海舟)の政治目的であった》として、こう記す。
《彼は一つのことの発生を極度に警戒し、他の一つのことの実現をひそかに待ちつづけていた。一つのこととは、旧幕臣による内乱の可能性であり、他の一つのこととは、慶喜への政治的および人間的責任と、近代国家日本への忠誠心との合一を経験することのできる日の到来である。そうするうちに、戊辰以来三十年という歳月が海舟の内部を流れて行った》
先に海舟があえて伯爵となったのも、徳川の復権につなげたいとの思惑があったからだった。海舟には小鹿(ころく)という長男がいて、米国留学後、海軍入りしていたが、胸を患って病気療養が続いていた。
その小鹿は、海舟が福沢の『瘠我慢の説』に対する返書をしたためた翌日に没した。すると、海舟は徳川慶喜あてに「志願書」を書き送った。その内容は、「勝家は先に華族に列せられた。断ろうと思ったが、少々所存があり、受諾した。このたび、長男が死去したので、華族の家を、慶喜の末男にぜひとも相続してもらいたい」というものであった。自分が生きている間は「勝家」、没後は「徳川家」としていただくとも書いた。つまりこれは、海舟の死後、徳川将軍の血筋が華族として復権する道筋をつけることを意味していた。あとに残される勝の一族は、新徳川伯爵家の厄介にならずに済むだけの経済的手当てもつけてある、と付記する行き届いた書面だったという。
慶喜の十男・精(くわし)の勝家相続が、こうして決められていった。
そこまでの手立てを尽くし、海舟はなお生きた。
明治31年(1898)3月2日、徳川慶喜が宮城に参内し、明治天皇に拝謁した。謁見が終わると、侍従たちを遠ざけて席を移し、天皇と皇后のみが慶喜と向き合い酒肴が供された。皇后が手ずから慶喜の盃にお酌をしたという。ここに、朝廷と徳川将軍との和解が31年ぶりに成った。
この席を周旋したのは、表面的には有栖川宮威仁親王とされるが、内々には海舟が奔走していた。参内翌日には慶喜が海舟邸に立ち寄り、海舟は「生きている甲斐があった」と思い嬉し涙がこぼれたという。この頃、海舟は健康を損ね、邸内に床を敷きっぱなしにして起居している状態だった。
「古稀より七つも余計に生きたよ」
長年の辛苦に一区切りがついて安堵したのか、翌明治32年(1899)1月、海舟は数え77歳で生涯を閉じた。満年齢でいえば、まる76年にわずかに欠ける75歳であった。海舟は前年暮れ、訪問客に、「おりゃ、もう十日もたって明年になれァ七十七になるよ。人生七十古来稀なりというが、その古稀より七つも余計に生きたよ」などと語っていたという。
海舟は以前から「死をおそれず、死を急がず」という信条を持していた。『氷川清話』に言う。
《死をおそれる人間は、もちろん話すに足らないけれども、死を急ぐ人も、またけつしてほめられないよ。日本人は、一体に神経過敏だから、必ず死を急ぐとか、または、死をおそれるものばかりだ。こんな人間は、共に天下の大事を語るに足らない》
数え77となれば、もはや十分に生きたという思いが、胸の中に去来していただろう。
亡くなったのは1月19日の午後5時頃。風呂から上がったあと座り込み、「胸が苦しいからブランデーを持ってこい」と家人に命じ、一口飲んだ途端、脳溢血に倒れ意識を失ったという。狭心症だったともいわれる。知らせを受け駆け付けた旧幕臣が、海舟の妹から聞き取ったところによれば、最期の言葉は「コレデオシマイ」だったという。
死はすぐには公表されず、翌20日、表向きはまだ生きていることになっている海舟のもとへ、天皇から見舞いの菓子折が贈られ、従二位の位階を正二位へと進めた。21日になって「午後五時心臓麻痺で死去」と発表された。このため公式には1月21日没とされる。
葬儀は25日、青山葬儀場で行なわれた。前夜から雪が降り、東京は一面の雪であった。
葬列が氷川の勝邸を発したのは午前9時。なお降りしきる雪の中を、棺は静かに進み、長い列があとに続いた。喪主の勝精は喪服に藁靴で棺に従い、途中、藁が濡れて裂け足指が露出したという。青山葬儀場に到着したのは10時40分。直接、青山に出向いた参会者も多く、会葬者はおよそ2000名に及んだ。
海舟の墓は、東京・大田区の洗足池の池畔にある。その墓に並んで、西郷隆盛の詩碑が建っている。これは葛飾の薬妙寺境内から移されたもので、もとは、海舟が明治12年(1879)に薬妙寺境内に土地を求め、畏友の遺徳を偲び秘かに建てていた碑であった。明治12年といえば、西郷が西南の役で叛逆者として逝って間もない頃で、海舟はこのことを誰にも語らなかった。
明治16年(1883)、西郷七回忌の年に、薩摩の黒田清隆や吉井友実、税所篤らが氷川町の海舟邸を訪れ、「朝譴(ちょうけん)いまだ霽(は)れないが、この辺でわれわれ同志が故人の霊をひそかに弔いたいと思うがどうだろう」と相談を持ちかけたとき、はじめて詩碑のことが明かされたという。
西郷自筆の漢詩を写したその詩碑に刻まれるのが、この稿冒頭に記した「人世浮沈似晦明(人世の浮沈は晦明に似たり)」の一節である。「晦明」は夜と昼であり、明と暗。人生は陰陽の明暗が頻繁に行き交う晦明のようなもの、夜と昼が移り変わるように転変極まりないというのである。詩はそのあと、こう続く。
「縦不回光葵向日(縦い光を回らさざるも葵は日に向う)
若無開運意推誠(若し運を開く無きも意は誠を推す)」
西郷のこの詩に、海舟は自分自身の人生をも重ねていたのだろう。
【主な参考文献】
『海舟余波』(江藤淳、講談社文芸文庫)、『勝海舟』(松浦玲、筑摩書房)、『それからの海舟』(半藤一利、筑摩書房)、『氷川清話』(勝海舟、勝部真長編、角川文庫)、『現代視点 戦国・幕末の群像 勝海舟』(旺文社)、『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』(河合敦、WAVE出版)
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矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。







