
「死を怖れもせず、死にあこがれもせず」
森鴎外 大正11年(1922)7月9日没。60歳
明治文壇の巨匠として夏目漱石と並び称される森鴎外が、《余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス》《墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス》といった遺言をのこして逝去したのは、大正11年(1922)7月9日だった。その遺言には、やはり、鴎外の生の軌跡が映し出されている。
鴎外は医師でもあった。生国は石見(現・島根県)の津和野。典医として200年の歴史を継承する森家の14代として、文久2年(1862)に生誕した。幼い頃から学問に秀で、19歳5か月の若さで東京大学医学部を卒業した。
その後、陸軍軍医となった鴎外は、明治17年(1884)8月24日、フランス汽船メンザレエ号に乗り、横浜港をあとに欧州を目指す。ドイツ陸軍衛生制度の調査と衛生学の研究をするのが、目的であった。帰国したのは4年後。フランス汽船アヴァ号で、明治21年(1888)9月8日、横浜港に帰り着いた。鴎外遺愛の品として現存する、蓋つきの陶製ビア・ジョッキや、可愛らしい犬の姿を模した葉巻切り(シガー・カッター)などは、このときに土産として持ち帰ったものらしい。
子どもの名づけは「キラキラネーム」の先駆け
鴎外が持ち帰った「独逸土産」には、もう少し風変わりなものがあった。それは、子どもたちに対する名づけであった。鴎外の本名は林太郎だが、これが西洋の音節の連なりとして馴染みにくいのか、留学時、なかなか覚えてもらえなかった。そんな経験から、わが子には、西洋人の名前と音が重なる名前を選んで命名したのである。
すなわち、長男は於菟(おと→オットー)、長女は茉莉(まり→マリー)、次男は不律(ふりつ→フリッツ)、次女は杏奴(あんぬ→アンヌ)、三男は類(るい→ルイ)。漢字の字面からも、どこかエキゾチックで洗練されたものを感じさせる名前である。鴎外の翻訳家としてのすぐれたセンスも、これらの命名に光彩を与えているように思える。
鴎外の名づけは孫にも及んだ。
大正9年(1920)、長女の茉莉に男児が生まれたとき、命名を頼まれた鴎外は、仕事で滞在中の古都奈良で大いに思い悩んだ。《人ニ名ヲツケルコトハ甚ダ難イ。ソレハ甚ダ易イカラデアル。ドウトデモツケラレルカラデアル》などと手紙にしたためつつ、最後は「爵」の爪冠を山冠にした字(爵の古体)を選んで、「じゃく」と読ませる名前を案出し、西洋名のジャックに重ねた。「爵」の字そのままでは、どこか尊大な印象を与えかねないと鴎外は案じたのだろうか。山冠の古体だと、その心配は消え、まろやかな品位が匂い立つような印象がある。自宅の書斎ならいざ知らず、手元に辞典もなかったであろう旅先でこんな名前を思いつくこと自体、鴎外の博覧強記は驚愕に値する。文字が難解ではないかと遠慮気味に再考を求めた茉莉の夫・山田珠樹に対しては、漢字を山から寸まで4つの部分にばらしてとらえれば、《組立テルノハ子供ガ書クニシテモムヅカシクハナイ》と説明し納得させた。
鴎外の感覚はある種、先進的で、近年流行の“キラキラネーム”の先駆けを思わせるところがなくもない。が、それ以上に、「和魂洋才の人」と言われた鴎外の生き方が、象徴的にあらわれていると見ることができる。鴎外は将来、自分の子や孫が西洋に渡航する機会があることを、現実感をもって視野に入れていた。実際、於菟と茉莉は大正11年(1922)、鴎外に見送られて欧州へ旅立っている。ふたりが外遊中に鴎外は逝去。於菟は医学の道で、茉莉は文学の道で、父を継承していくことになる。杏奴と類も鴎外没後、フランスへ2年間留学し絵画を学んでいる(不律は生後半年で夭逝)。
破局に終わった『舞姫』の恋
鴎外の持ち帰った「独逸土産」は、他にもあった。
鴎外の帰国からわずか4日後、ひとりのドイツ人女性が鴎外のあとを追って来日したのである。その名はエリーゼ・ヴィーゲルト。エリーゼは横浜港から東京へ至り、築地精養軒に滞在した。エリーゼと鴎外の関係がどこまでのもので、ふたりの間で何らかの約束がなされていたのかどうか、真相はわからない。鴎外の『独逸日記』からも、関連部分は削除されたらしく、鴎外のベルリンでの色恋を窺い知れるような記述は皆無に近い。ただ、異境の地に帰る東洋人を、ひとり船に乗ってはるばる追いかけてくるという女性の行動は、相当に深い恋愛関係に基づく決断と言わねばなるまい。
なかなか扱いの難しい「独逸土産」であった。鴎外の個人的感情としては、周囲の賛同を取り付けて結婚したいと考えていたと思われる。だが、鴎外の親族にとっては、この異境からの闖入者はどこまでも招かれざる客であった。長男の出世に大きな期待をかける母の峰子は言うに及ばず、弟妹たちにとっても、兄の前途に波紋を投げかけるような女性の存在は受け入れ難かった。事が公になれば、陸軍省としても簡単には容認することのできない話であったろう。一方で森家には、鴎外の帰国直後、海軍中将男爵・赤松則良の長女の登志子との縁談が持ち込まれていた。
事態の収拾に駆り出されたのは、鴎外の妹・喜美子の夫で、ドイツ留学の経験もある医学者の小金井良精(よしきよ)だった。良精は連日、築地精養軒に通いつめてエリーゼに面会し、相手の気持ちを和らげ、事細かに事情を説き聞かせたという。
結局、鴎外とエリーゼは周囲の説得に屈し、別離を受け入れた。エリーゼはひと月余りの日本滞在を経て、10月17日に横浜からドイツ汽船ゲネラル・ヴェルテル号に乗り、はるかな帰国の途につく。鴎外の小説『舞姫』のヒロイン「エリス」のモデルは、言うまでもなく、この女性であった。
鴎外はほどなく赤松則良の長女・登志子と結婚し長男も生まれるが、1年半後に破局。時に鴎外28歳。その後、長く妻帯せず、大審院判事荒木博臣の長女・志げ子と再婚するのは、満40歳を目前にした明治35年(1902)1月のことだ。そののち、家庭生活では嫁姑の不仲に悩みながらも4人の子をなし、官吏としては陸軍軍医総監ならびに陸軍省医務局長の地位にまで昇りつめる。その過程では、医学界の近代化を志して上層部と鋭く対立、小倉への左遷人事も経験している。けっして、なだらかな出世街道を進んだのではなかった。明治43年(1910)の大逆事件のあと、言論弾圧を強めようとする国家権力に対しては、自身が軍医総監という立場にありながら、いくつかの風刺的作品を発表して批判と提言を繰り広げてもいる。たとえば、『沈黙の塔』に鴎外は綴った。
《どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がゐて隙を窺つてゐる。そして或る機会に起つて迫害を加へる。只口実丈が国により時代によつて変る》
明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御した。大葬の日(9月13日)の乃木希典夫妻の殉死に強い衝撃を受けた鴎外は、江戸中期に殉死した熊本藩の武士に乃木の姿を重ね『興津弥五右衛門の遺書』を発表。以降、過去の文献史料をもとにした歴史小説の執筆に取り組んでいく。とくに、陸軍省から退官する意志を次官に告げた大正4年(1915)11月から後に紡がれる『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった作品は、文学者として新境地に踏み出した「史伝」として評価される。
一方で、鴎外と官界との縁は切れず、陸軍の正式退官が承認されてから1年半後には帝室博物館総長兼図書頭に任ぜられ、のち帝国美術院院長も兼任。終生、その職務に当たった。けっしてお飾りの名誉職などではなく、博物館から学術雑誌を創刊し、正倉院御物拝観規定を改訂し研究者へ門戸を開くなど、確かな実績を上げている。前述の、孫の命名の際、奈良に滞在していた仕事というのも、毎年秋に実施する正倉院曝涼のための出張だった。鴎外は奈良出張時、まだ幼い子どもたちに微笑ましい手紙を送っている。
《パパ ハ シヤウサウヰン ト イフ 天子サマ ノ オクラ ノ ムシボシ ニ ナラ ヘ キタノデス》《パパ ハ マリマリ ダノ アンヌコ ダノ ボンチコ ダノ ガ ミタク ナツテ コマリマス。モウスコシ スレバ ウチヘ カヘラレマス》
文豪の子煩悩ぶりがうかがえる。
ひとりの私人として死に赴く
大正9年(1920)1月下旬から2月上旬にかけ、58歳の鴎外は東京・千駄木の自宅「観潮楼」で病床についた。翌年あたりからは、時折、下肢に浮腫が出るようになった。腎臓疾患のためと思われた。大正11年(1922)4月末から5月にかけ、英国皇太子の正倉院御物参観のため奈良へ赴くが、ここでも体は思うようでなく病臥することが多かった。
5月26日、鴎外は旧友の賀古鶴所へ手紙を書いた。4月以降体調がすぐれないが、医師の診断を受け病状の進行を告げられても《精神状態ノワルクナル事ハ明デアル》し、また目下進めている著述への取り組みを中止して《一年長ク呼吸シテヰル》のと《ヤメズニ一年早ク此世ヲオイトマ申ス》のと《ドツチガイイカ考物デアル》として、《ドンナ名医ニモ見テモラハナイト云結論ガ生ズル》と告げたのである。賀古はこの書簡の封筒に、「医薬ヲ斥クル書」という貼り紙をした。
鴎外は、自身の体内で、腎臓の異変のみならず、肺結核が進行していることにも気づいていた。それでも、医師の診断や治療は不要とした。鴎外は以前、後輩作家の小島政二郎にも、「薬には病気を治す力はない。病気を治すのは人間のヴァイタル・フォースだ。薬は多少その補助をする程度に過ぎない。しかも薬には副作用がある」といった持論を聞かせたことがあったという。49歳の折に小説『妄想』の中に綴った、《死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く》という一節が鴎外の精神の底にある。
6月半ばから役所を欠勤した鴎外は、6月18日、志げ子夫人に泣きつかれて、ようやく、賀古の親戚の医師・額田晋による尿と喀痰の検査を許容した。だが、あとは脈をとらせるだけで何らの治療も受けなかった。
7月9日午前7時、満60歳で死去。最後まで、医薬も延命措置も斥けたまま鴎外は逝った。次女の小堀杏奴は後年、そんな父の姿を、《死への苦痛の中ですら母を慰め、昏睡状態に陥り、意識を失ふ直前迄、私達子供に優しい微笑を絶やさなかつた》(『絶へざる微笑』)と記している。
死因は萎縮腎とされたが、20数年のちに肺結核にも罹患していたことが、長男の於菟によって明らかにされた。大正期にはまだ、結核という病の伝染性が差別的視点につながる社会的風潮が拭いきれずにあった。家族思いの鴎外は、残された家族にそうした視線が注がれぬよう、配慮したのだろう。
死の3日前の7月6日、鴎外が口述し、友人の賀古鶴所によって書き留められた遺書は次のようなものだった。
《余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ コゝニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ワス 死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何(いか)ナル官権威力ト雖(いえども)此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ 手続ハソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス》
官の介入や周囲の容喙を拒み、一石見人として死するというところに鴎外の気概と覚悟があった。すべての衣冠や肩書を脱ぎ捨て、ひとりの私人として幕引きをする。そこには、かつて陸軍や家とのしがらみで、若き日の恋を捨てざるを得なかった悔恨と自己嫌悪も影を落としていたのかもしれない。鴎外とエリーゼとの文通は、別離のあとも長く続いていて、鴎外は最晩年になって、エリーゼからの手紙を自分の目の前で妻の志げ子に焼かせたという。
鴎外の墓は、遺言通り、中村不折の筆になる「森林太郎墓」の5文字のみを刻んで、最初、菩提寺である東京・向島の弘福寺に建てられたが、関東大震災で同寺が焼失した後、三鷹の禅林寺に移された。
昭和に入って三鷹に長く住んだ太宰治は、鴎外の墓の凛とした風格に魅せられ、自分の骨もこんな場所に埋葬してもらえたら幸福だと考えた。鴎外の死から四半世紀を経て、玉川上水で情死した津軽出身のこの作家の遺骨は、残された妻の計らいで、鴎外の墓と向かい合わせの場所に埋葬されることとなった。
鴎外の死から31年目となる昭和28年(1953)5月、禅林寺の鴎外の遺骨は分骨され、命日である7月9日に故郷・津和野の永明寺に納骨された。
※森鴎外の「鴎」は正しくは区の旧字体に鳥。
(主な参考文献)山崎一穎監修『森鴎外 明治知識人の歩んだ道』(森鴎外記念館)、山崎一穎監修『別冊太陽 森鴎外』(平凡社)、『新潮日本文学アルバム 森鴎外』(新潮社)、『日本文学全集5 森鴎外』(新潮社)
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矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com











