牧野記念庭園にある牧野富太郎博士の銅像。(写真:photoAC)

「わたしは草木の精だよ」

昭和32年(1957)1月18日、94歳没。

狸の巣のようだ――。

牧野富太郎の独身時代の下宿部屋は、友人たちからそう揶揄された。なにせ、あちこちで採集した植物と、植物を持ち帰ったときの新聞紙や泥が、部屋いっぱいに散らかっているようなありさまだったのだ。

だが、この狸の巣は、そのまま牧野の真骨頂でもあったろう。牧野の専門は植物分類学であり、しかも本人はつねづねこう主張していた。

「植物の学問は口舌や文字の学問でなく、徹頭徹尾実地の学問である。実地につき、実物について研究する処に植物学研究の真髄が存在する」

であってみれば、狸の巣のような部屋に住まずして、牧野の学問が進捗するはずがなかった。そして実際、牧野が膨大な数の標本をもとに、その植物を分類して発表した学名の数は約1400にのぼるとされる。驚くべき実績といえる。

もちろん、妻子を得てからも、家の中には採集した植物標本がいっぱいであった。さすがに、家全体が狸の巣ということはなくなったが、植物標本をおさめるだけで8畳2間を必要としたという。

植物学研究に打ち込んで半世紀が過ぎた頃、牧野は次のような都々逸をつくっている。

「草を褥(しとね)に木の根を枕 花を恋して五十年」

そして、この「五十年」の恋は、その後も醒めることなく、一生涯続いたのである。

小学校中退で新進気鋭の植物学者に

牧野富太郎は、文久2年(1862)、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)の裕福な造り酒屋「岸屋」のひとり息子として生まれた。「岸屋」といえば、佐川では知らぬ人とてない名家で、苗字帯刀を許された家系であった。

幼い頃に相次いで両親と祖父を失うという不幸はあったものの、牧野は「岸屋」の跡取り息子として、祖母によって大切に育てられた。

明治7年(1874)、時の政府の教育改革を受けて、佐川村にも小学校が設置された。12歳となる牧野は、この小学校に入学し2年ほど通った。

「私が、学校と名のつくところで学んだのは、この二年あまりの小学校だけであった。それも卒業しなかった」

後年、本人がそう語ったように、高知・佐川村の「小学校中退」というのが、牧野の正式な学歴となった。

けっして学問が嫌いだったわけではない。小学校入学以前、寺子屋や土佐藩校の名教館に学び、「生まれながらに好きであった」という植物の採集にも精力を注いでいた。だが、それだけに、五十音から改めて習うことになった小学校の授業内容に飽き足らず、自主退学することになったのである。改革への揺籃期である明治初期という時代と、学校制度という枠組みにはまりきらない独立心と才能が、牧野に独自の道を行かせたと見ていい。

小学校を中退した牧野は、その後、より広い視野を培おうと高知市へ赴き、五松学舎という塾へも通った。その高知で、師範学校の教鞭をとっていた永沼小一郎と出会った。永沼は西洋の科学や植物学に精通し、植物学の洋書の翻訳も手がけていて、牧野に大きな影響を及ぼした。

明治14年(1881)、19歳となる牧野は初めて東京の土を踏んだ。折から開催中の内国勧業博覧会を見物し、顕微鏡や参考書籍を購入。さらに、日光、箱根、伊吹山では、いろいろ珍しい植物を採集した。

明治17年(1884)、牧野は本格的に植物学の研究に没頭するため、再び上京した。家業を継がせたいという望みを抱いていた祖母を、強い情熱で説得しての旅立ちだった。最後は祖母も全面的に応援すると約束してくれた。

上京した牧野は、のちに小石川植物園内に移転する東京大学の植物学教室を訪ねた。同教室の当時の主任教授は矢田部良吉で、ほかに松村任三、大久保三郎らがいた。牧野の植物学研究に対する熱意と博識に感じ入った彼らの好意で、牧野は自由に植物学教室に出入りし、文献や標本を見ることが許された。

上京から3年が経過する頃には、植物学教室の学生らと共同で『植物学雑誌』を創刊。翌年には『日本植物志図篇』第一巻第一集の出版にこぎつけた。この出版準備のため、牧野は神田の印刷所に1年通って石版印刷の技術を習い覚え、印刷機まで購入する力の入れよう。その後も出版物の刊行に尽力しながら、明治23年(1890)には水生の食虫植物であるムジナモを発見。新進気鋭の植物学者として、学界の注目を集めた。

こうして、自分の時間と才能だけでなく、父祖伝来の財産を惜しげもなく注ぎ込んで、牧野は植物学研究に邁進していったのである。

この間、すべて順風満帆に見える進路に、思わぬ障害もあった。矢田部教授により、植物学教室への出入りを禁じられたのだ。ようやく大学という組織が秩序化してきたことから、正規の学生でない部外者が、大学の標本や書籍を閲覧し自分の著述に利用することが問題視されるようになった。そんな見方ができる一方で、そこには、矢田部の牧野に対する個人的な感情も働いていたのかもしれない。

その後、矢田部が教授の座をしりぞき松村が後任となると、牧野は帝国大学の助手に任命された。このとき牧野、齢31。明治45年(1912)、50歳の折には、遅ればせながら講師に格上げされた。植物学者として確かな実績を積みながら、そのまま万年講師で終わるのは、牧野の強烈な個性も影響していたのだろう。

牧野は「理学博士にするから論文を提出するように」と言われても、30年間断り続けた。最後はとうとう学位論文を提出したが、「学者に称号など必要ない」というのが牧野の持論だった。

借金取りへの対応は妻の受け持ち

『自叙伝』によれば、牧野が菓子屋の娘だった寿衛子と所帯を持ったのは、明治23年(1890)頃(牧野27~28歳頃)だという。次々と子どもが生まれ、最終的には夫婦の間には13人もの子が生まれている。

当時の牧野家の経済の逼迫は、相当なものだった。

牧野が帝大の助手という肩書を得た頃には、故郷の祖母はすでに亡く、「岸屋」の身代も破産に追い込まれていく。一方で、帝大助手の仕事はわずか月15円の薄給であった。

それでも牧野は、学問のためにはふんだんに金を使う。一家は借金取りに追われ、家賃も滞りがちとなり、家主からしばしば追い立てをくった。そのたびに、大家族と多量の植物標本を抱え、広くて家賃の安い家を血眼になって探さねばならなかった。

鬼よりこわい借金取りとの応対は、いつも妻の受け持ちだった。牧野の留守中、連中がやってくると、寿衛子は家の門に赤旗を掲げた。それが借金取りが来ているという合図だった。大学での仕事を終えて家路につく牧野は、この赤旗を見るとすぐにわが家の門をくぐらず、その辺をぶらぶらして時間をつぶし、借金取りの退散を待つのだった。

あるときは、家財道具の一切が競売に付されてしまい、食事をするにも食卓がないといった状況に陥ったこともあった。

後年、牧野はこの頃の生活を振り返って、『自叙伝』でこう述べている。

今日思い返して見ても、「よくもあんな貧乏生活の中でもっぱら植物にのみ熱中して研究ができたものだ」と、われながら不思議になることがある。それほど、妻は私に尽くしてくれた。債権者が来ても、きっと妻が何とか口実をつけて、追っ払ってくれたのだった。いつだったか、寿衛子が何人目かのお産をして、まだ三日目なのに、もう起きて、遠い路を歩き、債権者に断わりに行ってくれたことなどは、その後、何度思い出しても、私はその度に感謝の念で胸がいっぱいになり、涙さえ出て来て困ることがある。実際、そんな時でさえ、私は奥の部屋で、ただ好きな植物の標本いじりをやっていることのできたのは、まったく妻の賜であった

文句ひとつ言わず、そうした役割を担っただけでなく、寿衛子は自ら渋谷で待合を経営し家計を支えた。寿衛子は時折、冗談めかして牧野のことを「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」と言っていたというが、それは寿衛子の本音でもあっただろう。

寿衛子はさらに、いつからか、都心を離れた田舎に家を建てる計画を抱くようになった。都会では火事が多く、牧野が苦心して採集した植物標本や蔵書なども、灰となってしまう恐れがある。火事の危険性のほとんどない田舎の雑木林のまん中に一軒家を建て、ゆくゆくは、その家を標本館の中心として、ひとつの植物園を拵えたいというのが、寿衛子の思い描く理想であった。

「何時までも生きて仕事にいそしまん」

寿衛子の思いは形になり、大正15年(1926)5月、東京府北豊島郡大泉村(現・練馬区東大泉)に家を建て転居した。牧野家にとって、初めての持ち家であった。ところが、新居での暮らしを楽しむ間もなく、寿衛子は病に倒れてしまう。

昭和2年(1927)頃から入退院を繰り返し、昭和3年(1928)2月23日、55歳で永眠する。「病原不明の死だった」と牧野は記す。最後の入院のため自宅を出るとき、寿衛子は「もし、この病気がなおらなければこれが見納めですね」と、まばたきもせずに、じっと家を眺めていたという。

病床に付き添って、日一日と衰弱していく寿衛子を見ながら、牧野はなんとか長年の苦労に報いたいと思った。そんなとき、たまたま、仙台からもってきて研究していた笹に新種のものを発見し、その笹を「スエコザサ(学名ササエラ・スエコアナ)」と名づけた。自分の学究生活を長きにわたって支えつづけてくれた妻へ、深い感謝の気持ちを込めての命名であった。牧野は綴っている。

すえ子笹! 花も咲かず、目だたない草むらにじっとひそまりながら、風が吹くとさやさやとなつかしい音をさせる笹は、まことに家内にふさわしく思われた

寿衛子の亡骸は谷中の天王寺に葬られた。墓碑には、妻へのとこしなえの感謝として、牧野自身が詠んだこんな2句が刻まれた。

「家守りし妻の恵みやわが学び」

「世の中のあらん限りやスエコ笹」

昭和14年(1939)、牧野は78歳で東京帝国大学講師を辞任する。が、植物学への情熱は一向に衰えず、翌年、牧野植物学の総決算とも言える著作『牧野日本植物図鑑』の刊行を遂げ、その後も多くの研究書や随筆を発表しつづけた。

「何時(いつ)までも生きて仕事にいそしまん また生まれ来ぬこの世なりせば」

「何よりも貴とき宝持つ身には富も誉れも願わざりけり」

これら自作の歌が、牧野の心境であった。

牧野はよく、「わたしは草木の精だよ」と、うそぶいていた。

そして実際、その静かだが強靱な生命力は、並みの人間のものではなかった。昭和24年(1949)6月、牧野は大腸カタルのため一度は息を引きとった。ところが、口に含まされた死に水で奇跡的に蘇生。昭和31年(1956)7月にも風邪から重態に陥りながら回復。同年暮れからは、ほとんど何も食べず、強心剤とブドウ糖の注射で命脈をつないでいた。

長く病床に伏す牧野のため、月2回、勅使河原和風の弟子が交代で枕許の花を活けにきていた。花を見ると牧野は満足げに、「お花はいつも、きれいだ」と呟いて目を細めた。だが、活け手が帰ると、牧野は折角の活け花をむしりとって観察し、押し花にしてしまう。どこまでも、植物学者なのだった。

危篤の病床にあっても、「遺体を解剖してほしい」という希望を述べるとともに、自身の随想録や研究発表をまとめた『牧野渾々録』と『日本植物原色図譜』の刊行に意欲を示し、次女に指図をしていたという。

昭和32年(1957)1月18日、午前3時43分、牧野は練馬区東大泉の自宅で逝去する。享年94。死因は循環系の虚脱。このとき、邸内には40万枚におよぶ植物標本があったという。この邸宅は、独学で世界的植物学者となった牧野が、妻の寿衛子に支えられながら、一生かけて彫り上げた墓碑銘のようなものであったのかもしれない。

【主な参考文献】
『牧野富太郎選集』全5巻(牧野富太郎、東京美術)、『新訂 牧野富太郎自叙伝』(三四郎書館)、『別冊太陽 牧野富太郎』(平凡社)、『シン・マキノ伝』(田中純子、北隆館)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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