暮らしを豊かに、私らしく

2022年、長年在籍していたTBSを50歳で退職し、現在はフリーランスのアナウンサーとして活躍中の堀井美香さん。ますます活動の幅を広げ、自分の想いに素直に、そしてしなやかにセカンドステージへと歩を進めはじめた堀井さんが語る「ひとり時間の持てた今だから味わえるひととき」を隔月でお届けします。

【私をつくる、ひとり時間】
第6回 不条理や嘆きをゆっくりと紐解く『泥流地帯』の聖地巡礼

文・堀井美香

二次元の聖地巡礼というものがある。それは架空の人物に心を寄せ、遠き地を訪れる旅。そこに行けばあの人の姿を見つけられるかもしれない。声が聞けるかもしれない。頼りになるのは、自分の頭の中だけにある記憶。宗教的な意味合いこそないけれど、そこには神々と対話し祈りを捧げるという本来の聖地巡礼の形も少なからず内在されているような気がする。

石村拓一と耕作。二人の兄弟を追いかけて

自分の朗読会の題材のために読んできた三浦綾子の作品に『泥流地帯』『続泥流地帯』という物語がある。明治30年、北海道上富良野の地に開拓に入った人々がいた。厳しい環境の中で原野を開墾し、ようやく希望が見えた頃に起こったのが十勝岳の大噴火である。山津波は、巨石や大木、全てをからめとって恐ろしい泥流となり、開拓者たちが30年かけて作り上げた田畑を一瞬にして飲み込んだ。死者144人。実際にあった災害を描いたこの物語に、三浦綾子は石村拓一、耕作という二人の兄弟を登場させている。災禍により、見渡す限り流木が散乱し、硫酸にまみれた泥田を前に、必ず復興させることを誓う兄の拓一。元に戻る確証すらないのに毎日畑に出ていき、真面目に生きる兄を見ながら、なぜ正しいものが苦痛を受けなくてはならないのかと苦しみ、ヨブ記の中に答えの欠片を見つけ出す弟の耕作。二人の会話、二人の汗や涙。本を読んでいる間じゅう、私は彼らの近くにいて、彼らを感じていた。そしていつしか、この世に存在しない二人に、心を寄せてしまっていた。

だから、3月25日、どうしても二人に会いたくなって上富良野へと向かったこの旅はまさしく二次元の聖地巡礼であった。まだ雪景色の中の北海道をレンタカーで走り抜ける。街に近づくごとに私は、物語の中へと入り込んでいったのだ。

『泥流地帯』ゆかりの場所・上富良野

上富良野の駅で町役場の方と合流し、『泥流地帯』ゆかりの場所を案内してもらう。あそこが拓一と耕作が山葡萄をとった山、あのあたりが石村の暮らす家、ここが拓一が祭りで相撲をとったところ。泥流地帯を読み込んでいる役場の方の鮮やかな語りを聞きながら、その場所に目を移せば、今にも彼らが不意に現れそうな思いに駆られる。拓一の恥ずかしそうな笑顔、耕作の真剣な表情、石村家の祖父母や福子や節子に、この手で触れられるような気さえする。

山ひだがうす蒼く大きな屏風のように連なる十勝連峰の風景も、体の血が一度に清まるような爽やかな空気も、鋭い芦別岳から吹き下ろす風も、彼らが感じたそのままのものを全身で受け止めたい。一面真っ白な覆いがかけられた景色からは、山の緑も萱葺屋根も土俵も見えはしない。でももしかしてこの雪下に泥流地帯の世界が広がっているかもしれないという心持ちになり、私はそっと雪を撫でた。

三浦綾子の描く物語とリアルな場所が重なり、心に響く

三浦綾子は丹念に取材をし、物語にリアルな場所やエピソードを沢山登場させている。吉田村長の一家は実存し、拓一や耕作が可愛がっていた吉田村長の娘ていちゃんは後に泥流災害の語り部として生きた。郵便局員が立ち寄り水を飲んだ篠原さんの家も、拓一を救った高原家も本当にあり、今も子孫たちが暮らしているのだという。拓一と耕作が通った日進分教場の菊川先生(実際は菊池先生)も実際に存在していた。かつてこの沢合いで、菊池先生は子供達のために鐘を鳴らしたに違いない。青空に向かってすっくと立つ日新尋常小学校跡の碑を見ていると、現実と物語の風景が渾然一体となってくる。

しかし、大正15年5月、確かに泥流は流れてきた。そしてこの小学校にいた生徒達も犠牲になった。泥流は時速60キロという速さで、釜の湯のようにたぎり、狂い、家が流れ、馬が流れ、人が流れ、蒼く輝いていた五百町歩の水田は泥海になったという。上富良野の地に開拓に入った三重団体の人たちは勤勉で知られていた。負債を自戒し、酒を禁じ、大樹を一本一本切り倒し、少しづつ広がっていく青空を糧に、30年もの間ひたむきに働き続けた。真面目に生きてきた人たちの結果が、その報酬が、この泥流だったとしたら、自然はあまりにも無責任だろう。そしてこの世に善因善果、悪因悪果の導きなどないのか、なぜ自分がこんなにも苦難を受けるのかと何かを恨みたくもなる。

その不条理や嘆きを、三浦綾子は『泥流地帯』という作品の中でゆっくりと紐解いていく。私にはまだ、三浦綾子が伝えたいイエスの言葉の意味を深く読み取る力はない。苦難を神からの試練と受け止め、神は愛なりと信じることもたやすくはなく、きっと信仰そのものを理解するにはたくさんの時間が必要だ。

でも、拓一の

「自分の人生に、何の報いもない難儀な三年間を持つということはね、これは大した宝かも知れんと思っている。たとい米一粒実らなくてもな。それを覚悟の上で苦労する。これは誰も俺から奪えない宝なんだよ。」

という言葉に涙が止まらなかった。

報われたいからやるのではない。でも苦難に耐えることで自分だけに見える光、自分だけが受け取れる希望は必ずある。今の私にその言葉は響き、そうありたいと祈りたくもなる。三浦綾子は、神の言葉を、拓一と耕作に託した。そう考えると、この聖地巡礼で、その対象が二次元であったとしても、私はほんの少しだけ、朧げではあるけれど、神を見ることができたのではないかとも思ったりするのだ。

(編集部注)堀井さんの朗読会についてはこちら
https://serai.jp/hobby/1181617

撮影/喜多村みか(HP:www.mikakitamura.com Instagram:@mika_murmur_kitamura

写真 キム・アルム(@ahlumkim

堀井 美香(ほりい・みか)
1972年生まれ。2022年3月にTBSテレビを退社。フリーランスアナウンサーとして、ラジオ、ナレーション、朗読、執筆など、幅広く活動中。
HP:https://www.yomibasho.com/
Instagram:@horiimika2022
Twitter:@horiimikaTBS

 

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