暮らしを豊かに、私らしく

2022年、長年在籍していたTBSを50歳で退職し、現在はフリーランスのアナウンサーとして活躍中の堀井美香さん。ますます活動の幅を広げ、自分の想いに素直に、そしてしなやかにセカンドステージへと歩を進めはじめた堀井さんが語る「ひとり時間の持てた今だから味わえるひととき」を隔月でお届けします。

【私をつくる、ひとり時間】
第4回 気まぐれの道草で出会った、毎日向き合いたくなる作品

文・堀井美香

女性の平均寿命は87歳らしい。でも50歳を過ぎ、もうこの世の生に限りがあることも理解している。いつからか時間の感覚はカウントアップからカウンドダウンに切り替わった。だから気は急いている。やり残したこと、整理したいこと、極めたいことの宿題は積み上がるばかり。その上、要領が悪いのに仕事を詰め込みすぎるという、自分の性分も首を絞める。毎日毎日24時間では足りない。目の前のことに集中しよう。急ごう。なのにどういうわけか時々ふらりと寄り道をしてしまう。

ありふれた気まぐれのように見えて、抗いがたい磁力

山陽堂書店は表参道の交差点角に静かに佇む本屋だ。明治24年の創業からずっとこの地で営業している。心憎い選書が置かれたショーウインドウを見ていると、この本屋が職人の店であることがわかる。

幾人がこの店に足を止め、本を手にしたことだろう。ここから新しい世界が始まった人もいるはずだ。

それまでも待ち合わせのついでに入ることはあったが、ある先輩に、2階はギャラリー3階は素敵な珈琲店になっているからと誘われ、始めて螺旋階段を登った。そこは小さな雪洞みたいなスペースになっていて、この店の5代目だという、お洒落で若い男性がカウンターでコーヒーを淹れていた。深くて甘いコーヒーの香りに包まれたせいか、窓から見える表参道の人々の往来がゆっくりと移ろうように見えたことを覚えている。

ある日、その山陽堂書店さんの2階のギャラリーで朗読の会があることを知りなんとなく申し込んでみた。当日は翻訳家の柴田元幸さんが、ご自身の出された本を読み、対談もするという。海外文学に疎い私でも「柴田元幸」という名前くらいは知っている。あの小さなスペースでの朗読とはどんなものだろう。ほんのすこしの興味が湧いた。ありふれた気まぐれのように見えて、それは抗いがたい磁力に動かされていたのかもしれない。

切ないパステル画、初めて聞く音色と節奏、自分の記憶までも蘇る作品

当日、会場となった山陽堂書店2階の小さなギャラリーにはカナイフユキさんの『ゼペット』の絵が壁一面に飾られていた。柔らかく輪郭線のないゼペットお爺さんと人形の男の子のイラスト。ゼペットお爺さんの表情はいつも何かを欲しているがそれが何かもわからないし、人形の男の子の表情はいつも笑顔だけれど何故か本当は笑っていないようにも見える。こんなに切ないパステル画を見るのは初めてだった。

会が始まり、柴田さんがご自分で訳されたレベッカ・ブラウンの『ゼペット』を朗読する。人間になりたいと願った、私たちの知るピノキオとは少しちがうお話。ゼペットお爺さんは自分の愛する人形の男の子に生きてほしいと望む。でも彼は人間にはなりたくない、生きたくはないという。愛するが愛されない。二つが浸透し合うこともない。それにその人形の男の子が、神のように本当に存在するかどうかもわからない。ゼペットお爺さんは最期を看取られるベッドの中で夢を見る。それは人形の男の子に愛される夢。

柴田さんはその話を、シンプルな言葉で、祈るように語った。整った声での朗読でもなく、体から魂で演じる朗読でもない、私が初めて聞く音色と節奏。

音色の中にある穏やかな孤独と不確かなものへのまなざしは、レベッカ・ブラウンの作品と一つになっている柴田さんにしかうみ出せない。訳しながら読んでいるかのように聞こえる独特の節奏は、柴田さんがその瞬間のレベッカ・ブラウンを私たちに渡したいという想い。柴田さんにしかできない語り。私にとってその語りがどれほどの衝撃であったか。

そして、初めて知ったレベッカ・ブラウンという作家。彼女の自伝的小説『若かった日々』の「ナンシー・ブース、あなたがどこにいるにせよ」の一節を柴田さんが読む。文章は詩のようなリズムを刻み、言葉は単純だが力を持って響いた。彼女が書き出す鮮明な過去の記憶のひとつひとつをなぞっていると、自分の記憶も蘇ってくる。もっと彼女の作品を読みたい。彼女の作品を読んだ分だけ自分を理解できるような気もした。

あの日からずっと、レベッカ・ブラウンを読んでいる

あの時、私はそこで、優しい絵を描くカナイフユキというイラストレーターを知り、柴田元幸という翻訳家の仕事を見て、レベッカ・ブラウンという作家に出会った。

それらの3つが符合し私の前に現れた時、あきらかに、あの表参道の交差点を見下ろす小さな本屋のギャラリーが、世界の中心だったのだ。

ほんの気まぐれの道草。なにの私はあの日からずっと、レベッカ・ブラウンを読んでいる。相変わらずやることは山積みで、時間はどんどんなくなっていく。急がねばならないことはわかっている。でもやっぱりゆっくりとページをめくることを止められないのである。

写真 キム・アルム(@ahlumkim

堀井 美香(ほりい・みか)
1972年生まれ。2022年3月にTBSテレビを退社。フリーランスアナウンサーとして、ラジオ、ナレーション、朗読、執筆など、幅広く活動中。
HP:https://www.yomibasho.com/
Instagram:@horiimika2022
Twitter:@horiimikaTBS

 

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