履き心地のよさとデザイン性を併せ持ち、足の悩みを持つ女性から高い支持を集めている『ミスキョウコ』の靴。デザイナー兼プロデューサーの木村恭子さんが、外反母趾に悩んでいた母に“おしゃれで快適に歩ける靴を贈りたい”という想いから誕生しました。1995年の創業以来、100万足以上の靴を販売し、2016年には東京・青山に旗艦店をオープン。母娘で訪れるファンも多いといいます。
そんな『ミスキョウコ』のブランドを創ってきた木村恭子さんの素顔を知りたくて、大阪のご自宅を訪問。これまでの道のりや靴作りのこと、また、趣味や休日の過ごし方など、ライフスタイルについてもお話を伺いました。
初回は、人生の転機になった出来事や、靴作りへの想いなど、仕事に関するインタビューをお届けします。
母の介護をしながら気づいた足の悩み
――『ミスキョウコ』は、足に悩みを持っていたお母様への贈り物として、生まれたと伺っています。
私が母の足の悩みに気づいたというか、理解したのは、10代後半に母の介護をしていたときでした。横になっている母の変形した足を見て、「歩くと足が痛い」と言っていたことや、「もっと楽な靴があったらいいのに……」とこぼしていた昔のことを思い出したのです。また、母はおしゃれな人でもあったので、楽に履けるだけでなく、デザインも素敵な靴があったらうれしかっただろうな、と介護をしながら思っていました。
――それから、靴作りの世界に入ったのですか?
いえ、それはもう少しあとのことです。母の介護をしていたころ、自分の人生は面白くないなと感じていました。当時は、「友だちはみんな好きなことをやっていてうらやましい」とか、「私は自分一人で何ができるんだろう。自分の力で何かできる人になりたい」と、もやもやとした気持ちで過ごしていました。
人生観が変わったマザー・テレサとの出会い
そんなとき、テレビでマザー・テレサの特集を見たのです。もちろん彼女のことは知っていましたが、改めてその生き方に感動するとともに、自分の胸のうちをマザー・テレサに聞いてもらいたいと思いました。それで、会いに行くことにしたのです。
――インドまで行ったということですか?
はい。母の介護を終え、約3か月間、マザー・テレサのもとでボランティア活動をしました。マザー・テレサとはきちんと話がしたかったので、少しでも英語力をつけておこうと、イギリスに3か月間留学をして、それからインドに渡りました。
インドでは1泊100円くらいの廃墟のようなホテルに寝泊まりをして、マザー・テレサのいる施設に通っていました。主な活動は、衛生と食事の介助ですね。施設では、コンクリート敷きの雑多なところに簡易ベッドが置いてあり、そこに病気の人たちが横たわっています。その人たちを他の場所に移動させ、歩けない人は抱きかかえて移してから、床に水を撒き消毒をします。そして水気も拭き取って元に戻し、食事のお手伝いをしました。
「想いを込めれば必ずできる」という言葉が、今も心の支えに
――マザー・テレサと個人的な話はできましたか?
ええ。「どうしたら、自分の力で何かを成し遂げられる人になれますか?」といった、生き方の相談をしました。マザー・テレサは、「大きなことはできなくても、自分のできることをやればいい。そして、何かをするときには想いを込めなさい。一つのことに想いを込めてやり続ければ、必ずできるようになる。だから大丈夫よ」と、背中を押してくれました。その言葉が、今も私の心の支えになっていて、仕事をするうえでも、“想いを込める”ことを一番大切にしています。
また、マザー・テレサは、「どうしても自分の力でできないときは、一人で抱え込まず、周りに意見を求めたり、助けてもらえば、道は開きます。できないことはない」とも言っていました。マザー・テレサと出会ったことで、人生観が大きく変わりました。
大阪の靴職人と共に靴作りを開始
――靴作りを始めるきっかけになったのは何だったのでしょう。
すばらしい大阪の靴職人と知り合えたことですね。母が外反母趾、甲高、幅広で靴選びに苦労していたことは、ずっと心に残っていました。また、その職人さんからも同じような話を聞き、想像以上に足の悩みを抱えている人が多いことを知ったのです。
そして、日本特有の柔らかい皮革と、伸びやすい素材を組み合わせて、優しい履き心地の靴を作ってみないか、と職人さんから提案がありました。それにプラスして、おしゃれなデザインの靴にしていこうと、話が進んでいったのです。柔らかい皮革も、ストレッチの効いた伸びる素材も、きちんと形にするのはとても難しいのですが、高い技術を持っている職人さんだっだからこそ、実現することができました。
私からは、「この部分は水玉にしてほしい」「花柄のパッチワークにしてほしい」などとリクエストをして、作ってもらいました。その中には、現在も続いているデザインも多くあります。
靴の色も、百貨店を周ったり、雑誌を参考にしたりして決めていきました。今はグレーやグレージュなどの色も人気ですが、当時は黒と茶色が主流で、社長に「グレーの靴を作りたい」と提案したら、とても驚かれたのを覚えています。でもグレーは、どんな色にも馴染みやすく、主張もし過ぎません。それで、ゼブラ柄の靴を作ってみました。また、バラのパッチワークもグレーで作り、それは今も『ミスキョウコ』のアイコンとして残っています。
通販サイト出演で知名度が上がり、店舗展開へ
――「ミスキョウコ」のブランド創設が2000年。そこから転機になった出来事はありますか。
最初の転換期は、2009年に『QVCテレビショッピング』という通販番組に出演し、たくさんの視聴者に見てもらえたときです。1時間の枠があり、その時間帯で初めて100万円以上売り上げ、それから大手通販会社との取引も始まり、知名度が上がっていきました。実際に履いてもらえる場所がほしかったので、近鉄百貨店(あべのハルカス近鉄本店)に常設店をつくり、次は東京に進出したいと思い、青山に旗艦店を開きました。
旗艦店を青山にしたのは、街のおしゃれな雰囲気がいいし、靴のデザインのディテールでも謳っていますが、どこか懐かしい感じを取り入れたかったからです。じつは青山は、自分が若いころに働いていた場所でもあって、おそらく同世代の人にとっても、憧れだったり、遊んだりしていた場所だったと思います。ですので、店舗も少し懐かしいテイストにしました。
青山店には、沖縄から北海道まで、全国からお客様が訪れてくださいます。通販で買うのはちょっと不安、というお客様も結構いて、そういう方たちが安心して買える場所ができたのは、よかったと思っています。
お客様の笑顔が仕事の励み。親子3代で履いてもらえる靴作りを目指したい
――靴作りを始めてから、何が一番大変でしたか。
始めのころは、靴の箱入れから発送まで全部自分たちでやっていましたし、これまでトラブルもなかったわけではありませんが、特に大変だと思ったことはないですね。私は体が健康で、ストレスも溜めないタイプかも。だから、スタッフからは“不死身”と言われています(笑)。
でも、今思えば、マザー・テレサに会いに行く前、自分の生き方が見えなかったときが、一番つらかったかもしれませんね。自分のやりたいことがわかり、「想いを込めれば、できないことはない」と教えてくれたマザー・テレサの言葉が、私を前に向かせてくれます。
そして、自分を過大評価しないことですね。“できるのが当たり前”と過信して、うまくいかなかったら落ち込むでしょうが、「自分は未熟なのだから、できなくてもともと。落ち込むには、まだ早い」と思っていれば、ストレスにもなりません。意識して、落ち込まないマインドを作るようにしていました。
――常に前を見て、仕事をしてきたことが伝わってきます。そうした中で、もっとも仕事のやりがいを感じるのは、どんなときですか?
お客様に喜んでもらえたときです。靴を履いて足が痛いのは、自分のせいだと思い込んでいたお客様が、「初めて痛くない靴に出会えた」と笑顔を見せてくれたときは、本当にうれしかったです。「足の悩みがなくなって幸せです」「履き心地のよい靴を作ってくれてありがとう」「履ける靴が増えて、選ぶ楽しさができました」などと感謝の声をいただき、人の役に立っていると感じることが、仕事のモチベーションにつながっています。そんなお客様の声を職人にも伝え、共に“お客様に喜ばれる良い靴”を作っていきたいと思います。
――お客様の声を励みに、『ミスキョウコ』はまた新たな挑戦をしていくのですね。
今の60~70代の女性はおしゃれに敏感で、“若見え”することを好んでいると感じます。そのようなニーズに応え、また若い人にも素敵だと思われる靴を作りたいですね。祖母、母、娘の3代で履いてもらえる、幅広い年代に支持してもらえるデザインを目指していきたいです。
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次回は、木村恭子さんが仕事で愛用しているバッグや小物などをご紹介します。
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木村 恭子(きむら・きょうこ)
1968年生まれ、兵庫県出身。貴金属の卸会社に勤務し、母の介護で離職。その後、インドでボランティア活動をする。2000年に『ミスキョウコ』ブランドを発足し、デザイナー、プロデューサー業に携わる。2016年に東京・青山に旗艦店をオープン。高島屋大阪店、あべのハルカス近鉄本店、京王百貨店 新宿店の常設店以外にも、全国の百貨店でポップアップイベントを開催。青山店では、ポーセラーツやフラワーアレンジメントなどのワークショップを開き、講師も務める。
取材・文/北野知美 撮影/奥田珠貴