
腕時計を手に取り、じっと文字盤を眺めるとき、人は時計の向こうに何を見るのでしょうか。精緻な歯車の動き、熟練の職人が施した仕上げの光沢、あるいは230年前に一人の天才が抱いた夢の残像か……。ブレゲの「トラディション 7037」は、そんな問いかけに静かに答えを差し出す、稀有な時計です。2026年、黒と青の2モデルとして新たな装いをまとい、時計の世界に再び現れました。
文/土田貴史
文字盤に広がる、時計師の舞台
2005年のコレクション誕生以来、「トラディション」シリーズが貫く設計哲学は一貫しています。通常は時計のケース裏側に隠されるムーブメント——複雑に噛み合う歯車、テンプの規則的な往復、輪列の美しい配置を、そのままの姿で文字盤側に展開して見せるというものです。キャリバーを表裏反転させてケース内に収め、時計師の仕事そのものを正面に据えています。
その大胆な選択が生み出した光景が、「トラディション 7037」の文字盤です。今回初めてブルーに彩られたムーブメントが、文字盤越しに広がります。グルネイユ仕上げの地板、ショットブラスト仕上げのブリッジ、ギヨシェでスネイル模様を刻んだ香箱蓋——これらすべての部品が手作業で仕上げられ、深みのある青として輝いています。左右対称で均整の取れた機構の配置、上質な仕上げ、卓越した技術。マニュファクチュールの本領が、ここに結晶しています。
さらに注目すべきは、レトログラード式スモールセコンドです。一般的な回転式とは異なり、弧を描いて動く針が10時位置に置かれ、精確な作動の証を示しています。50時間のパワーリザーブを持つキャリバー505SRが、その動力を支えています。

230年を超える着想 モントレ・ア・タクトの記憶
文字盤の上方12時位置に、小さく白いダイアルがあります。グラン・フー エナメルを施したホワイトのオフセンターダイアルで、そこには「ブレゲ数字」と呼ばれるアラビア数字が刻まれています。この偏った配置には、230年以上をさかのぼる深い来歴があります。
1795年頃、時計師アブラアン-ルイ・ブレゲは「モントレ・ア・タクト」と呼ばれる懐中時計を着想しました。暗がりの中でも、社交の場でこっそりと時刻を確かめたい瞬間でも、蓋の表面に浮き彫りになった指針に指先でそっと触れるだけで時刻がわかる——そんな洗練された発明です。その触覚部分のカバーを開けると、時刻表示のダイアルがムーブメントの一部に小さく置かれ、機構はそのまま露わとなっていました。
「トラディション 7037」のオフセンターダイアルは、そのまま「モントレ・ア・タクト」の精神的な末裔に連なります。老舗の工房に受け継がれる秘伝の技のように、師の着想は形を変えながら、現代のメゾンによって丁寧に引き継がれています。しかもその小さな白いダイアルに刻まれたアラビア数字は、ブレゲが1783年に考案した書体のままです。「ブレゲ数字」がいまも新鮮に見えるのは、誕生当初から普遍を宿していたからに他なりません。

振り子のように揺れるプラチナローター。古典的巻き上げの美学
時計を裏返せば、半月形のローターが静かに揺れています。現代の自動巻き時計に広く普及する全回転式ローターとは異なり、振り子のように弧を描く「バスキュール式」の巻き上げ機構です。この半月形ローターの設計もまた、アブラアン-ルイ・ブレゲ自身が考案したものを直接参照しています。往復の動きでぜんまいに力を蓄えていく様子は、古典的な巻き上げの様式美を体現しています。
このローターにプラチナ950を用いた点も、時計師の先見の明を感じさせます。18世紀末、プラチナはまだ革命的な新素材でした。その精錬・加工技術が確立されたのは1780年頃のことです。ゴールドより30パーセントも高密度で、スティールの2.5倍の重さを持つプラチナは、ローターの重みを活かした効率的な巻き上げをもたらします。その性質をブレゲはすでに見抜いていました。「ペルペチュエル」と名付けた自動巻き時計においてプラチナを採用した先見は、時代を数世紀先取りしていたのです。
現代のブレゲ・マニュファクチュールがこの素材に再び回帰するのは、創設者への敬意の表れであり、その先見の正しさを今あらためて讃えることでもあります。プラチナ製ローターは今日、数えきれないほどの自動巻き時計に用いられています。かつて革命だったものが、今や常識となりました。

青と黒。ふたつの顔が語るもの
最新「トラディション 7037」は2つのモデルで展開されます。18Kホワイトゴールドのケースにブルーのラバーストラップを合わせたモデル(Ref. 7037BB/YB/5V6)は、鮮やかなブルーのムーブメントと12時位置のホワイトエナメル文字盤が、対比の妙を生み出しています。一方、プラチナケースのモデル(Ref. 7037PT/N9/5V6)は、ブラック仕上げのムーブメントとグラン・フー エナメルによる漆黒の文字盤が一体となり、より引き締まった端正な佇まいを持っています。
どちらもケースサイドにはフルート装飾(コインエッジ)が施され、文字盤側の球面サファイアクリスタルには両面に反射防止コーティングを備えています。細部まで行き届いた配慮が、時計を見る者の視線を静かに引き込みます。
ふたつの表情のどちらを選ぶかは、持つ者が内なる時間とどう向き合うかによるでしょう。青は空か海か、果てのない広がりへの憧憬を呼び起こし、黒は静謐な古典の威厳を纏っています。いずれの選択も、230年以上の時計哲学を手首に携えることを意味しています。


【 仕様・価格 】
Ref. 7037BB/YB/5V6 18Kホワイトゴールド、38mm 761万2000円(税込)
Ref. 7037PT/N9/5V6 プラチナ950、38mm 837万1000円(税込)
搭載キャリバー|505SR 自動巻き、プラチナ950製バスキュールローター
振動数|3Hz(毎時21,600振動)
パワーリザーブ|約50時間
防水性能|3気圧(30m)
保証|購入から5年
問い合わせ先/ブレゲ ブティック銀座 Tel.03‐6254-7211
https://www.breguet.com





