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石田三成の孫を家老に迎えた弘前藩の思惑とは【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】

歴史作家・安部龍太郎氏による『サライ』本誌の好評連載「謎解き歴史紀行~半島をゆく」。「サライ.jp」では本誌と連動した歴史解説編を、歴史学者・藤田達生先生(三重大学教授)がお届けしています。津軽半島編の第3回は、弘前藩祖・津軽為信が石田三成に対して恩義を感じていた理由に迫ります。

 

津軽為信の菩提寺・革秀寺にある為信「霊屋」(通常非公開)

津軽為信の菩提寺・革秀寺にある為信「霊屋」(通常非公開)

 ■秀吉の奥州仕置

弘前藩初代藩主・津軽為信(つがる・ためのぶ)の霊屋(たまや)が、弘前市内の古刹・革秀寺(かくしゅうじ)に存在する。ここは堀がめぐらされ、茅葺(かやぶ)き入母屋(いりもや)の本殿は、近世初頭の様式を示し、霊屋とともに重要文化財に指定されている。訪問して、中世城館のようなたたずまいが特に印象に残った。

当寺は、弘前城の真西に鎮座し、その延長に岩木山が位置する。南部氏に対する猛烈な独立運動によって成立した弘前藩は、藩祖・為信の霊屋と岩木山によって守護され続けたのである。

この独立運動を、西方はるか遠く京都や伏見から支えた人物が、石田三成だった。豊臣政権は、天下統一の最終局面となった天正18年(1580)の奥羽仕置において、伊達政宗をはじめとする奥羽諸大名に対してきわめて厳しい処置を講じた。そのリアクションとして、秀吉の帰陣直後に奥羽全域で仕置反対一揆が勃発したのは当然の成りゆきだった。

天正19年(1581)には、南部氏一族・九戸政実(くのへ・まさざね)が決起する。このきっかけは、前年7月の下野(しもつけ)宇都宮における秀吉の南部信直(なんぶ・のぶなお)に対する処遇にあった。そこで、秀吉は信直を南部氏当主として認め、政実をその家中に位置づけ、居城破却と妻子の信直居城三戸への提出、さらには検地実施も決定された。実力的に信直を凌駕していた政実が、この仕置に反発したのは当然のことだった。

政実の抵抗が、それを押さえ込むことのできない信直によって、天下の謀反に仕立て上げられたのである。これには、政宗が裏でつながっていたといわれる葛西・大崎一揆の残党も加わっていた。和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)一揆への対処も兼ねて、天正19年6月に豊臣秀次と徳川家康が下向し、蒲生氏郷(がもう・うじさと)とともに一揆方諸城を攻撃した。

6月20日付で秀吉は、秀次に宛てて奥州奥郡に向けての大動員令を発令し、政宗以下に軍令を発表した。目的は、葛西・大崎一揆再征と九戸一揆の鎮圧、それに城割と郡分・知行割にあった。つまり、前年の奥羽の現状をほとんど無視した性急な仕置の失敗を受けての再仕置といってよい。

 

■豊臣政権の粗暴な本質

九戸決起への対応については、8月6日の二本松における浅野長政・秀次・家康・氏郷・政宗らの会談によって、氏郷が主力となり、出羽・津軽の軍勢が加勢し、秀次麾下(きか)の堀尾吉晴、家康麾下の井伊直政が協力し、全軍の差配は長政が担当することになった。

6万人ともいわれる上方勢の前に5千人程度の九戸勢では衆寡敵(しゅうかてき)せず、政実は天正19年9月4日に降伏した。籠城衆の助命の約束は反故にされ、女性や子供も含む九戸一族は殲滅される。政実は秀次の本陣三迫(宮城県栗原市)で成敗され、その首は京都で獄門にかけられた。

近年の九戸城(国史跡、岩手県二戸市)の発掘調査で、二の丸跡の円形土坑墓から刃物傷のある六体の男女の首のない人骨が見つかっている。人骨からは、手足や腰などをめった切りにされた様が窺えるそうである。防具を付けていたなら付かないはずの部分にまで傷があり、九戸政実が投降して、まったく戦意を失っていた籠城衆を殺戮したのであろうことは容易に想像できる。

葛西・大崎一揆に連動する奥羽全域規模の仕置反対一揆に関する史料の掘り起こしは進められているが、それらが一様に地域民衆の皆殺しで終結したことに特徴がある。これらは、あますことなく豊臣政権の粗暴な本質を物語っている。

秀吉の天下統一は、正確にはこの九戸城落城をもって完成したといってよい。通説のように、北条氏の滅亡を画期とすることはできない。まったく不思議なことに、これまでは全奥羽規模の抵抗とそれに対する鎮圧が天下統一戦とリンクして論じてこられなかったのである。

 

■津軽に逃れた三成の次男

奥羽仕置の結果、奥羽の諸大名は、おしなべて減封となった。政宗は天正14年7月に入手した二本松領が没収された。和賀・稗貫両氏は、宇都宮に来た秀吉に伺候(しこう)しながら本領を没収された。最上・本庄領を除く出羽の大名領には、本領の三分の一の豊臣蔵入地が設定された。

ところが、秀吉の命令を無視して戦闘した安東(あんどう)氏が本領を安堵されたり、津軽氏が南部氏から攻め取った津軽を安堵されたことは注目される。豊臣国分とは、最後までこのような恣意的かつ理不尽な側面をあわせもつものだったのである。

かくも峻厳をきわめた秀吉の奥羽統一が、津軽氏の南部氏からの独立を実現したことから、弘前藩においては秀吉はもとより、様々な支援を得た三成に対する恩義は格別のものと位置づけられたのは当然であった。それは、慶長5年(1600)年9月の関ヶ原の戦いの後の三成の子どもたちへの処遇からもうかがわれる。

三成の次男・重成は、豊臣秀頼に小姓として仕えていた。同僚だった津軽信建(為信の長男)の指示を受けて、なんと若狭から日本海ルートで津軽まで逃れたのであった。さすがに姓名はそのままとはいかず、杉山源吾と称した。

津軽家の居城・弘前城で。弘前市教育委員会・小石川透さん(右)と。

津軽家の居城・弘前城で。中央は作家の安部龍太郎氏。弘前市教育委員会・小石川透さん(右)と。

その長男吉成は二代藩主・津軽信枚(のぶひら)(為信の三男)の娘を妻として家老となり、杉山家は代々藩重臣として存続する。これは弘前藩において、いかに三成に対する恩義を意識していたのかを示す史実である。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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