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夏目漱石、愛犬の死を知らされ深い悲しみを抱く。【日めくり漱石/10月31日】

3 夏目漱石 2

秋の雨が、朝から蕭々と降り注いでいた。時にそれが、ざあざあと強い音を立てた。

漱石が愛犬の死を知らされたのは、そんな雨の土曜日。大正3年(1914)10月31日、つまり今から102 年前の今日の出来事だった。

知らせをもたらしたのは、東京・早稲田南町の漱石の自宅から1~2丁隔たったところにある家のお手伝いさん。山門前に榎の古木が聳える寺の、すぐ側の家だった。その家の庭の池の中に、今朝、犬の死骸が浮いていた。首輪を検めると、「夏目」という名前が彫りつけてあったので、知らせにきたというのだった。

漱石は、謡の師・宝生新の家から風呂敷に包んでもらってきた、まだ赤ん坊のこの犬に、ヘクトーというギリシア神話の英雄にちなんだ立派な名前をつけていた。トロイア戦争においてアカイア人の遠征軍と戦ったトロイア側の総大将で、最後、敵方の勇士アキレウスに討たれたのがヘクトー(ヘクトル)なのである。

夏目家のヘクトーは赤斑の毛並みの雑種の犬で、「ヘクトー」とその名を呼ばれると嬉しそうに尻尾を振っていた。尾を振りながら漱石に飛びつき、背中をこすりつけ、泥足で衣服や外套を汚したことも、何度となくあった。

9月上旬からひと月半近く、漱石は胃潰瘍のため自宅で病臥した。ようやく起き出して庭に目をやると、久しぶりに見るヘクトーの様子がどうもおかしい。看護婦に病院に連れていってやるように言いつけた翌日、ヘクトーは姿を消していた。八方探したが見つからない。それから1週間余りが経って、今日の哀しい知らせが届いたのだった。

「うちの方で埋めておきましょうか?」

使いのお手伝いさんが言った。漱石はそれを断って、すぐに隣家の俥屋に頼み、遺骸を引き取ってきてもらった。そうして、裏庭の猫の墓から一間ばかりの場所に埋葬した。白木の墓標には、「わが犬のために」として、一句をしたためた。

《秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ》

黒八丈の襟のかかった銘仙のどてらにくるまりながら、書斎の北側の縁に出て硝子戸のうちから庭を覗くと、猫のものとヘクトーのものと、ふたつの墓標がよく見えた。薄黒くなって朽ちかけている猫の墓標に較べると、ヘクトーのはまだ生々しく光っているように感じる。

「しかし、まもなく、ふたつとも同じ色に古びて、人の目につかなくなるのだろう」

深い寂しみを抱いて、漱石はそんなふうに思う。

雨はやむ気配もなく降り続いていた。

■今日の漱石「心の言葉」
犬は夜を守るの天才なり(『ノート』より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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