今から111 年前の今日、すなわち明治38年(1905)10月29日、38歳の漱石は、寺田寅彦に誘われて午後から東京・千駄木の自宅を出て上野へ向かった。東京音楽学校(現・東京芸術大学)の卒業演奏会を聴くためであった。
寅彦の当日の日記によれば、聴衆の中には多くの西洋人も混ざっていたという。
帰りがけ、ふたりは夕食をともにし、日本橋から銀座の辺りを、イルミネーションを見ながら散策。漱石が東京・千駄木の自宅に帰り着いたのは、夜の9時頃であった。
漱石が書斎に戻ると、机の上に2通の手紙が置かれていた。
1通は、発売から20日間で『吾輩は猫である』の単行本の初版が売り切れ、目下第2版印刷中である旨の、出版元からの連絡。漱石はこれを受けて、挿絵を描いてくれた中村不折に礼状を書いた。
《拝啓 かねて御面倒相願候「吾輩は猫である」義、発売の日より二十日にして初版売切、只今二版印刷中のよし、書肆(しょし)より申来候。これに就ては、大兄の挿画は、その奇警軽妙なる点に於て、大に売行上の景気を助け候事と深く感謝致候。拙作も御蔭にて一段の光輝を添え候ものと信じ改めてここに御礼申上候。以上》
一見、事務連絡のような文章の端々に、作り手として、ともに喜びを分かち合いたい気持ちが綴り込まれている。
もう1通の手紙の差出人は、旧知の内田魯庵(ろあん)であった。魯庵は自身、文筆家として活動しながら、丸善で発行する『学燈』という雑誌の編集に携わっていた。
封を開くと、中からは、書状の他に27枚の猫の絵葉書が出てきた。書状には、『吾輩は猫である』への賛辞と作者への励ましの言葉が書き連ねられている。漱石は非常にありがたく、愉快な気持ちになった。
漱石は魯庵への返書をしたためた。
《拙稿は御覧の通りの出鱈目(でたらめ)をかきつらねたるものにて最初は別段書物に致す考も無之(これなき)候ところ友人らの勧めにて稿を続ける事に相成(あいなり)、書肆(しょし)の催促により出版を急ぎ候もの。実は大方諸君の批評如何あらんかと気づかいおり候ところ、はからざる貴君よりかかる御言葉を頂戴し非常の慰藉(いしゃ)を得たる次第に候。(略)公平にして眼識ある人の賞賛は満腔の感謝を以て拝受致候》
追伸には、洒落っ気でこんな言葉も付け加えた。
《猫儀只今睡眠中につき小生より代って御返事申上候間、不悪(あしからず)御容赦願上候》
もしかすると、実際、漱石先生の視野の中には、部屋の片隅で居眠っている猫の姿がとらえられていたのかもしれない。
■今日の漱石「心の言葉」
書を読むや躍るや猫の春一日(『吾輩は猫である』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
