今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)10月23日、44歳の漱石は、鎌倉に住む友人の菅虎雄に戒名を書いてもらうべく、依頼の手紙を書いた。
《拝啓 唐突ながら御願いがある。戒名を一つ書いて貰いたい。縁喜が悪いけれども是非願ひたい》
別段、近年はやりの「終活」ではない。門弟の松根東洋城の、父親と母親の戒名を書いてもらおうというのだった。このうち、鬼籍入りしてまもない母親の戒名「霊源院殿水月一如大姉」は、漱石がこの数日、東洋城と相談しながらつけたものだった。
菅虎雄は能書家だった。4年前の夏目家の引っ越しの際も、漱石は手伝いにきていた菅虎雄に頼んで、門札を書いてもらったほどだった。
そんな姿を、東洋城も目撃していた。墓石に文字を刻み入れるための下書きとして、両親の戒名を筆文字にする必要に迫られたとき、東洋城の頭に、あの日の引っ越し当日の菅虎雄の筆を持つ姿と、立派な文字が、思い浮かんだのである。東洋城は、漱石に母の戒名選びを頼んだ時点で、同時に菅虎雄への仲介も願い出ていた。
漱石は菅虎雄宛ての依頼の手紙を書き終えると、間を置かず投函した。「これでよし」と漱石は思う。
漱石宛ての手紙は方々から来る。そのひとつひとつに返事を書いたり、頼まれごとを処置したりする必要がある。それをつい保留してため込んでしまうと、後が大変になる。それがわかっているので、今回は迅速に菅虎雄への取り次ぎをすませた。
漱石は内心いささか得意になって、胸をそらすような気分になった。ところが、その直後、東洋城から漱石のもとへ手紙が届いた。東洋城は自分で頼んでおきながら、ふと気が変わり、「やっぱり夏目先生に戒名を書いてもらいたい」と言ってきたのだった。
しかし、もうあとの祭り。漱石はこれにもすぐに返事の葉書を出す。
《実は先刻菅に手紙を書いて頼んでしまったり。毎日手紙の返事をためて置くと大変故、今度はすぐ片づけた積(つもり)で大得意のところ、模様替には一寸困り候。今更よすと云うのも異なものではないか》
菅虎雄が、綺麗な楷書体で戒名を書き上げた数枚の厚手の用紙を携え、鎌倉から上京し漱石山房へやってきたのは、この依頼から8日目、10月31日のこと。見ると、さすが、いずれの文字もよい。当人の好みもあろう。漱石先生、自分で「これは」と思う候補に朱でしるしをつけながら、すべての用紙を封入し、手紙を添え東洋城へ送った。
《拝啓 先夜は失礼 昨日菅氏参り戒名数通の楷書見せ候ところ、何れも棄てがたき故みんな御目にかけ申候》
のちのち菅虎雄は、漱石の戒名も書くことになる。
■今日の漱石「心の言葉」
死ぬという事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも云えない(『吾輩は猫である』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
