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3 夏目漱石 2

今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)10月21日、39歳の漱石は門弟で俳人の松根東洋城とともに、東京・千駄木の自宅から大森・池上方面を目指した。

散歩というには、ちょっと遠い距離。いまでいうハイキングのようなものだった。

東洋城は、10日前からはじまった「木曜会」に、甘えからくる小さな反発を感じていた。漱石が「面会日は木曜午後三時から」と記して、赤い紙を玄関の格子に張り出してあるのを見て、「玄関に赤い紙で面会日などを張り出されるのは、なんだか不快です。僕のために、遊びにくる日を別に拵えてください」と、駄々ッ子のようなことを言っていた。

そんなこともあって、日曜日のこの日は、東洋城の誘いを受け入れ、曇天にもかかわらず連れ立って出かけたのだった。

このとき漱石の洋服の内ポケットには、1通の手紙が隠し入れられていた。門弟の森田草平が、自分自身の出自と心根を漱石だけに打ち明けた、秘密の手紙であった。昨日の夜中にしたためられたもので、漱石のもとには今朝届いたのである。

読み終えたら誰にも見られないよう、すぐに捨て去るべき内容の手紙であった(自分は母親の不義の子ではないかという疑いを抱いていたらしい)。ところが、漱石がこの手紙をじっと読み返していると、松根東洋城がいきなり現れた。

東洋城に見られてならないのは言うまでもないが、といって部屋に置き残しておける類のものでもない。漱石は慌てて手紙を内ポケットへ押し込み、そのまま長い散策をする羽目になっていた。

漱石先生を独占したいふたりの門弟の思いが、人知れず、交錯しているのだった。

漱石と東洋城は、途中、品川に近い鮫洲の日本料理屋「川崎屋」で食事をした。

東洋城がちょっと席を外した隙に、漱石は手紙をポケットから取り出し、引き裂いた。持ち歩いているだけでも、なんだか心配でならなかったのだ。とにかく引き裂いたが、といって捨てる場所も暇もなく、裂いた手紙をまたポケットに隠し入れた。

東洋城と別れ、家に帰ってひと息ついた夜11時頃、漱石は草平に手紙を書いた。

《あの手紙を見たものは手紙の宛名にかいてある夏目金之助だけである。君の目的は達せられて目的以外の事は決して起る気遣はない。安心して余の同情を受けられん事を希望する。余の知る人のうちに二三君と同様の境遇の人あり。否境遇の人なりときく。されど彼らは皆相応に成功の人なり。(略)君の生涯は是からである。功業は百歳の後に価値が定まる。百年の後誰かこの一事を以て君が煩とする者ぞ。君もし大業をなさばこの一事却って君が為めに一光彩を反照し来らん》

秘密の厳守されることを確約し、大きな視点から励ましを送る漱石先生である。

■今日の漱石「心の言葉」
百年計画なら大丈夫、誰が来ても負けません(『書簡』明治39年11月11日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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