今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)10月20日、漱石は東京・内幸町の長与胃腸病院の白いベッドの上で、漱石山房の特製原稿用紙に向かっていた。
どうにか原稿を書けるまでに体力が回復していた。医者からも許可が出た。何もしないでいるのは無聊(ぶりょう)でもあるし、自己の病気の経過と、病気の経過につれて起こる内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも書き留めておきたい、と考えていたのである。
《漸くの事で又病院迄帰って来た。思い出すと此処で暑い朝夕を送ったのも最早三ケ月の昔になる》
漱石は、そんなふうに書きはじめた。手にしているのは、万年筆であった。修善寺で仰向けに病臥したままの姿勢で、子どもたちに手紙を書いた時に使った、それと同じ万年筆だった。
どんな文面の手紙を書いたのか、時計を巻き戻してちょっと紹介しておく。
《けさ御前たちからくれた手紙を読みました。三人とも御父さまの事を心配してくれて嬉しく思います。
この間はわざわざ修善寺まで見舞に来てくれてありがとう。病気で口がきけなかったから御前たちの顔を見ただけです。この頃は大分よくなりました。今に東京へ帰ったらみんなであそびましょう。
御母さまも丈夫でここに御出(おいで)です。るすのうちはおとなしくして御祖母さまのいうことをきかなくってはいけません。
三人とも学校がはじまったらべんきょうするんですよ。
御父さまはこの手紙あおむけにねていて万年ふででかきました。
からだがつかれて長い御返事が書けません》(明治43年9月11日付)
父親としての温かな情愛がにじむ、いい手紙である。宛て先は、上の3人の娘たち(筆子、恒子、栄子)。下の4人の子(愛子、純一、伸六、雛子)はまだ文字も解し得ない幼児だった。
さて、入院中の長与胃腸病院のベッドの上で書き上げた原稿を、漱石は、東京朝日新聞の文芸欄の手伝いをしている門弟の森田草平のもとへ送った。これが9日後から朝日新聞に断続的に掲載される『思い出す事など』の第1回の原稿であった。
漱石が原稿を書いたという話を聞きつけ、すぐに飛んできたのは、東京朝日新聞主筆の池辺三山だった。三山は漱石の顔を見ると、まだ入院中の身でなぜ原稿など書くのか、と叱りつけた。
「医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈しのぎくらいなところと見てくれればよかろう」
漱石は、そんなふうに言い訳した。三山はなおも、
「医者の許可もさることながら、友人の許可も得なければいかん」
と、無愛想な声で言った。その無愛想の向こうに、深い親愛の情がこもっていた。
三山は、会社から出した金の処置についても、自分に一任してくれるようにと、漱石に言った。長与胃腸病院に移送されるまでの、修善寺での長い病臥生活に関わる費用の一部を、三山の意向により朝日新聞社が負担していた。
回復してからそのことを知った漱石は、妻の鏡子を通して返却を申し出ていたのだが、三山はすでに会社の出費として会計処理を済ませていたのだった。
漱石は友の気遣いに感謝しつつ、ただ黙って頷いた。
■今日の漱石「心の言葉」
私は信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです(『明暗』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
