今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)10月19日、漱石はイタリアのジェノバ港の大地を踏みしめていた。
漱石の側には、留学生仲間の藤代禎輔や芳賀矢一、戸塚機智、稲垣乙丙がいた。皆が大きなトランクを傍らに置いている。横浜を出航し、途中いくつかの港に寄りながら洋上を航海すること42日。いまようやく、汽船プロイセン号を下船した漱石たちであった。
すでに秋の日が暮れかけていた。船が港に到着したのは午後2時頃であったが、検疫に思った以上に時間をとられたのである。
ホテルの案内人に導かれて、一行は宿泊先のグラン・オテル・ド・ジュネへと向かった。名前からして、フランス系のホテルだったのだろう。英語でいう「グランド・ホテル」がフランス語の発音だと「グラン・オテル」となるのである。
丘陵を背景に負って、立派な市街が続いていた。ホテルの構えも宏壮にして優美。漱石は胸の内で、「こんなところに泊まるのは生まれて初めてだ」と、驚きとともに呟くのだった。
一行は、翌朝8時半発の列車でパリに向かうことになっていた。昨日、船がナポリに到着したときには、このまま下船してポンペイを見物し、ローマに回って1週間ほど滞在したらどうだろうかという意見を言う者もあったが、このときパリでは万国博覧会が開催されていた。ローマ観光はまたの機会があるかもしれないが、万博を見るチャンスは2度とないだろう。そんな議論をした結果、ナポリで下船せず、今夕のジェノバ宿泊を選択した一行だった。
翌朝からまる1日かけての、列車によるパリへの移動も、戸惑いの連続。勝手がわからぬまま先を越され、留学生仲間はばらばらの席になる。
途中、国境を越えてフランス入りするとき、漱石は車外で税関の検査があるものと思い込み、荷物を抱えて真っ先に列車を飛び降りた。ところが、検査官の方が車内を回るから座ったままでいいのだと分かり、慌てて席へ戻った。
すると、そこにはもう、別の旅客がちゃっかりと座り込んでいた。
「そこは私の席だ」
漱石が英語で言うと、相手はフランス語で大威張りに答える。
「君が何も置いていかないから、空席と思って座っただけさ」
そう言われてしまえば、その通り。だが、漱石先生も、ただ負けっぱなしではいない。
別のコンパートメントで、8人掛けの席がひとつ空いているのを見つけ、そこにもぐり込んだ。同席していた7人は皆同じグループの仲間らしく、しきりに不平を言っていたが、漱石先生、馬耳東風と受け流し座り続けたのだった。
■今日の漱石「心の言葉」
その頃の余は西洋の礼式というものをほとんど心得なかった(『博士問題とマードック先生と余』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
