サライ.jp

3 夏目漱石 2

今から111 年前の今日、すなわち明治38年(1905)10月18日、38歳の漱石は第一高等学校の教壇に立っていた。英国留学から帰朝後、漱石は、東京帝国大学英文科講師と第一高等学校講師を兼任。その後、明治大学の講師にも就任していたのだ。

『吾輩は猫である』を書きはじめ、文筆家として世間の注目を集めるようになっても、漱石の教師としての仕事ぶりは変わらなかった。三校をかけもちで駆け回って講義する日々。野間真綱宛ての手紙に書いた《浮世はウンウン働くものに候》を、自らも文字通りに実践していたのである。

しかし、いつの時代も、出来の悪い生徒、勉強を怠る学生はいるものである。漱石はこの日、そんな学生のひとりを、大声で叱りつけていた。

漱石は続いて、全員に向かって宣告するように言った。

「全般にこんなに出来ないと、皆、落第だ!」

漱石先生にそう告げられては、学生たちは悲鳴を上げただろう。

しかし、漱石本人は、「落第」を必ずしもマイナス・イメージだけでとらえていなかった。周囲にもよく、「一度くらい落第するのはいい薬だ」と言っていた。これは何も口先だけのことでなく、実体験に基づくものであった。

漱石自身も一高時代に一度、落第をした。以降、発奮して勉強して首席で通し、大学では特待生にもなった。第1回の文部省派遣の給費留学生にも選ばれた。振り返ってみれば、回り道も悪くなかったと、思っている。

そのものずばり『落第』と題する談話筆記の中で、漱石はこんなふうにも述べている。

《人間というものは考え直すと妙なもので、真面目になって勉強すれば今まで少しも分らなかったものも瞭然(はっきり)と分るようになる。前には出来なかった数学なども非常に出来るようになって、ある日親睦会の席上で誰は何科へ行くだろう誰は何科へ行くだろうと投票した時に、僕は理科へ行く者として投票された位であった。元来僕は訥弁で自分の思っていることが言えない性(たち)だから、英語などを訳しても分っていながらそれをいうことができない。けれども考えてみると分っていることが云えないという訳はないのだから、何でも思いきって云うに限ると決心して、その後は拙くても構わずどしどし云うようにすると、今までは教場などで云えなかったこともずんずん云うことが出来る。こんなふうに落第を機としていろんな改革をして勉強したのあるが、僕の一身にとってこの落第は非常に薬になったように思われる。もしそのとき落第せず、ただ誤魔化してばかり通って来たら今頃はどんな者になっていたか知れないと思う》

さて、この頃、鈴木三重吉の友人の加計正文が広島から上京していた。加計は、蓄音機を使って漱石の声を録音したいと、漱石門下の中川芳太郎を通じて言ってきていた。

鈴木三重吉は神経衰弱のために大学を休学し、郷里の広島に近い能美島という村で療養中だった。その療養先で、加計は、三重吉から中川芳太郎を紹介してもらったのだろう。

録音が実現したのは10月末のことだった。

「せんだって、僕が学校へ行くのは学生に教えるためではない、飯櫃の足しにするために出かけるのだと言った」

蓄音機に向かって、漱石はそんな言葉も口にした。学問や教育というものに高い理想を持つ一方で、この台詞もまた、生活者としての漱石先生の本音でもあったのだろう。

■今日の漱石「心の言葉」
落第のいっぺんくらいは心地よきものに候。ますます奮発しておやりなさるべく候(『書簡』明治34年9月12日より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

夏目漱石ありし日々の面白エピソードを毎日連載!「日めくり漱石」記事一覧へ

ランキング

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

サライ最新号
2020年
10月号

サライ最新号

大人の逸品Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア