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3 夏目漱石 2

今から104 年前の今日、すなわち大正元年(1912)10月13日、45歳の漱石は朝一番で東京・神田錦町の佐藤診療所に足を運んだ。痔の手術を受けて10月2日に退院したあと、引き続き通院して治療を受けていたのだ。

10月5日には、医師から「ようやく人間並みのお尻になりました」との声もかけてもらっていたが、まだしばらくは通院しながらの経過観察が欠かせないようだった。

診療が終わると、漱石はその足で、上野公園へ向かった。そこで、第6回の文部省美術展覧会、いわゆる文展が開催されていた。あらかじめ手紙で連絡をとって、会場の入口付近で寺田寅彦と待ち合わせをしていた。

横山大観の『瀟湘八景』、安田靫彦の『夢殿』、今村紫紅の『近江百景』など、多くの作品が展示されている中で、漱石がとくに心を動かされたのは、小杉未醒(放庵)の『豆の秋』だった。そこには、「未醒という人が本来の要求に応じて、自己に最も適当な方法で、自己を最も切実にかつ有意義に表現した結果」が感じられたのだった。

実は展覧会場に入るやいなや、漱石の頭の中には、次のような言葉が浮かんでいた。

「芸術は自己の表現にはじまって、自己の表現に終わるものである」

これは漱石が自身の創作活動を続ける中で、近頃、よく胸の奥に去来する言葉であった。作家としての自分の、ひとつの信条のようなものになりつつあった。これは、「画家は自分がそう見えるなら太陽を緑色に描いてもよい」という高村光太郎(美術家・詩人)の主張とも、通ずるものだったろう。

審査員の評価や俗衆の気受けばかりに心を奪われていると、芸術は堕落しかねないと漱石は恐れていた。近年やたらと文展の権威が強まり、文展に落選したために妻から離縁を請求された画家までいるという噂を聞くに及び、余計にそう思っていた。

漱石はこのあと朝日新聞に発表した『文展と芸術』の中に、こんな一文も書き入れた。

《文展六回の審査に及第した作品が、千遍一律の杓子定規で場内に陳列の栄を得たものとは、ただ瞥見した丈でも、考えられないが、あすこに出ている以外に、どんな個性を発揮した作品があったかは不幸にしてまだ解決されない問題である。余は審査員諸君の眼識に信を置くと共に、落第の名誉を得たる芸術家諸氏が、文展の向うを張って、サロン、デ、ルフューゼを一日も早く公開せん事を希望するのである。同時に個人の団体からなるヒューザン会の如き健気な会が、文展と併行して続々崛起(くっき)せん事を希望するのである》

文展に入選したものだけが優れた芸術とは限らない。落選したものの中にも、きっといい作品はあるはず。そうしたものの発表の場をもっとつくるべきだと、漱石はいうのである。

マネやルノワールも、初期にはその作品がスキャンダルを巻き起こしサロンから酷評を受けた。そんな西洋の美術史も、漱石先生の頭の隅にはあったのだろう。

■今日の漱石「心の言葉」
日本の絵画の進歩の原因を、一概に文部省の展覧会に帰するのは間違っている(『文芸委員は何をするか』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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