今から108 年前の今日、すなわち明治28年(1895)10月6日は日曜日だった。松山の中学校で英語教師をつとめる28歳の漱石は、親友で俳人の正岡子規とともに道後温泉へ向かった。
漱石と子規は、しばらく前から愚陀仏庵(ぐだぶつあん)と名づけた下宿の離れの建物で同居生活を続けていた。松山はもともと子規の生まれ故郷である。その子規が、どうして、東京(江戸)生まれの漱石の下宿に転がりこんでいたのだろうか。
子規の父親は、子規が子どもの頃に病没。子規が勉学のため上京したあとは、しばらく子規の母親と妹が郷里の家に残っていた。大学を中退し新聞『日本』で働きはじめると、子規は母と妹を東京に呼び寄せる。こうして明治25年(1892)の11月から、家族3人の東京暮らしがはじまっていた。
半年前、子規は従軍記者として日清戦争末期の中国大陸へ渡った。もともと胸を病んでいた子規は、帰国途上の船中で喀血し、神戸での入院を余儀なくされた。どうにか回復したものの、その後なおしばし療養するため松山へ戻り、漱石の厚意で同居生活を営んでいたのである。

漱石と子規の、松山における同居生活の拠点となった愚陀仏庵の庭。写真/神奈川近代文学館所蔵
この日、道後温泉へ向かった漱石と子規は、木造3階建ての道後温泉本館の前に立ち、思わず建物を見上げる。いまは歴史的建造物として重要文化財に指定されているこの建物も、当時に時計を巻き戻せば、前年4月に落成したばかりの目新しい建造物であった。
玄関をくぐったふたりは、楼上へと上がっていく。目指すは三層楼の最上階。そこでは、茶菓が供されるのである。漱石は以前、友人の狩野亨吉に宛てた手紙(明治28年5月10日付)の中でこんなふうに綴っている。
《道後温泉は余程立派なる建物にて、八銭出すと三階に上り茶を飲み菓子を食い湯に入れば頭まで石鹸で洗って呉れるという様な始末、随分結好に御座候》
本館最上階にのぼった漱石と子規は、周囲を見回す。眺望はなかなかのもの。晴れて心持ちのいい日だった。子規はこんな句をひねった。
《柿の木にとりまかれたる温泉哉》
子規は果物が好物で、つい先日の句会の折にも葡萄を買い込んで盆の上に山盛りにして、皆を喜ばせていた。
その後、ふたりは、子規の曾祖母の墓があるという鷺谷寺や、一遍上人生誕の地ともいわれる宝巌寺を見学し、新栄座へと繰り込んだ。今様狂言を見物するためであった。漱石はのちに談話『正岡子規』の中で、子規を評して《二人で道を歩いていてもきっと自分の思う通りに僕をひっぱり廻したものだ》と回想しているから、このときも子規が漱石を引率するようにして歩いていたに違いない。
そうやって歩きながら、漱石先生の脳裏には、ふたりして東京で散歩したり寄席通いをしたりしていた学生時代の日々が、ふと思い浮かんだりしていただろうか。
■今日の漱石「心の言葉」
何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった(談話『正岡子規』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
