今から108 年前の今日、すなわち明治41年(1908)10月5日、漱石は朝日新聞に連載中の小説『三四郎』の原稿を書いていた。
《三四郎は何とも答えなかった。ただ口の内で迷羊(ストレイシープ)、迷羊(ストレイシープ)と繰り返した》
最後に「。」をつけて、これが結末の1行。脱稿の瞬間であった。
起稿は8月の上旬。これが東京と大阪の朝日新聞に9月1日から12月29日まで、全117 回にわたって掲載されていった。単行本として春陽堂から刊行されるのは、少し間があき翌明治42年(1909)5月13日のことになる。
漱石作品は、朝日新聞社の印刷現場にもファンが多かった。すぐには単行本にならないため、大阪では現場の職人たちがひそかに「社内版」の限定本を制作していたという逸話がある。

新聞連載を版組みをもとに大阪朝日新聞社の印刷現場で作成された社内版『門』。神奈川近代文学館所蔵
新聞掲載の翌日か翌々日、組んだ活字をばらしてしまう前に、校正刷りに使用する手押しの印刷機を使って和紙に印刷。最終回まで印刷がすむと、社内の製本場で製本してもらい、仲間に配っていたというのである。
漱石も同じ朝日新聞に所属する社員だという気楽な仲間意識も手伝っていたのだろうか。いずれにしろ、まだ世の中に著作権のことなどが浸透していない、古くおおらかな時代の出来事であった。
『三四郎』の場合も、こうした「社内版」がつくられた。その1冊は朝日新聞社内にいまも残されていて、平成19年(2007)に江戸東京博物館で催された「文豪・夏目漱石」展にも展示されていた。
『三四郎』のあとテーマを引き継ぐような意識で書かれ、『三四郎』と合わせて漱石の前期三部作を構成する小説『それから』や『門』についても、同様の社内版がつくられている。
さて、漱石は、まる2か月近くにわたって、ずっと根をつめて『三四郎』を書き続けてきたので、脱稿したとなると解放感が胸の奥にこみあげていた。
その解放感のままに、明くる日、先頃そろって東大を卒業した鈴木三重吉、小宮豊隆、野上豊一郎の3人の門弟を集めて、卒業祝いも兼ねた食事会を催した。彼らより5年先輩で理学博士になったばかりの寺田寅彦も、自転車に乗って駆けつけた。
寅彦が博士になったお祝いは、漱石は別途考えていた。後年、自分自身は頑として博士号を辞退する姿勢を貫く漱石だが、可愛い門弟の寅彦が博士号を授与されたことは素直に喜んで祝福しているのである。
この日の食事会がお開きとなったのは深夜12時近く。しばらく封印していた謡も、存分にうなった漱石先生であった。
■今日の漱石「心の言葉」
これほどお目出たい事はないじゃございませんか(『行人』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
