今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)10月3日、漱石は病に伏した自宅の床の上で、池辺三山の訪問を受けていた。
漱石は関西方面の講演旅行の途中、胃病のために入院。帰京後、痔を悪くして自宅で処置をしてもらい、しばらく床に起き直ることもできなかった。いまようやく、体が起こせるようになってきた今日この頃であった。
「主筆を辞めたよ」
池辺三山は突然にそう言った。漱石は仰天した。
三山は漱石の東京朝日新聞入社以前から同社の主筆をつとめてきた人物。漱石が最終的に朝日入りを決断したのも、三山と面会したときにその人柄と風貌に動かされたためだった。
漱石が驚きながらも事情を問いただし、三山は説明していく。
きっかけとなったのは、朝日新聞に連載中の森田草平の小説『自叙伝』。平塚らいてふとの心中未遂事件を題材にした『煤煙』の続篇であった。社の評議員会(編集会議)の席上で、その内容が不道徳だという非難の声が出た。
話はそこにとどまらず、漱石の指導のもと、小宮豊隆と森田草平が実務者として運営している文芸欄も廃止すべきだという議論に発展した。政治部長の弓削田精一が、これを強く主張した。池辺三山はこれに反対し、草平と文芸欄を擁護した。
結局、『自叙伝』も文芸欄も続けることとなったが、交錯する言葉のやりとりの中で今度は弓削田精一と池辺三山の辞職話が浮上した。最後は社長の村山龍平まで大阪から上京。両人とも、辞表を提出する形で、決着することとなったのであった。
自分の門弟の森田草平のことが起因となった事件である以上、自分も辞職せねばならん。漱石はそう思い、口に出した。が、三山はそれだけは絶対にいけないと引き留め、引き上げていった。
漱石は考えあぐねた末、2日後、弓削田精一へ手紙を書いた。病臥中でこちらから訪問できないので、申し訳ないが一度足を運んでくれないかと頼んだ。直接会って話をすることで、もう少し円満な方向へ導けないかと思ったのである。しかし、一度決裂したものを元に復することはできなかった。
漱石が自ら評議員会で朝日文芸欄の廃止を提案し、可決されたのは、この数週間後、10月24日のことだった。
騒ぎをよそに自分だけが埒外にいて安穏としていることは、漱石先生の気持ちが許さなかったのである。
■今日の漱石「心の言葉」
池辺君が退社したに就て或は自分も出ようかと考えた(『書簡』明治44年10月25日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
