今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)10月1日、39歳の漱石は自宅でひとりの訪問客と対面していた。
客人は、服部書店主人の服部国太郎。もと大倉書店の番頭で、漱石の処女作『吾輩は猫である』の単行本化の話を企画し推し進め、その後、独立して出版社を経営していた。
「ところで、これは、僕のところに出入りしている森田草平から頼まれたのですが」
漱石はそんなふうに切り出した。漱石門下の森田草平は、当時、東京帝国大学を卒業したばかり。在学中から、文芸雑誌の編集を手伝ったり原稿を書いたりして、文学への道を志していた。草平の同級生で親しい仲間の生田長江と川下江村も、同じ志向を持って活動していた。
それぞれが書いた小説や詩の原稿を集め、1冊の本にできないか。3人の間でそんな話が持ち上がり、草平はそれを率直に師の漱石にぶつけた。題名の候補も、3人の相談で『はなうづ』と決まっていた。
虚心坦懐にこの話を受け止めた漱石は、若い人たちの後押しをしたい気持ちから、今日、服部国太郎がやってきた機会をとらえ、相談に及んだのだった。
「ともかくも、一度原稿を拝見させていただきたいですね。出版できるかどうか、あとのことは、それからということで」
服部は応じた。それはそうだろう。いくら漱石の依頼でも、原稿の中身を見ないうちから安請け合いすることはできなかった。
漱石はその夜、早速、草平に手紙を書き、話の結果を報知した。
《かねて御依頼の三名家文集の義、本日服部主人参り候につき談合致し候ところ、ともかくも原稿を拝見致したきとのことなり。よって、いつでも御序(おついで)の節、御三君の名文をあつめたものをちょっと御見せ下さい。まずは用事のみ》
結局、この本は『草雲雀』という標題をつけられ、翌明治40年(1907)11月に刊行された。巻頭には、服部の要請もあって、漱石の序文が寄せられた。
《真摯なる述作である。之(これ)を世に公にするのは単に三君に取って有意義なるのみならず、又世間に取って有意義である》
この本が世に出る前に、メンバーのひとり川下江村が急逝してしまった。そのため、『草雲雀』は川下江村の形見ともなったのであった。
■今日の漱石「心の言葉」
文章は苦労すべきものである(『書簡』明治38年6月27日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
