3 夏目漱石 2

今から109 年前の今日、すなわち明治40年(1907)9月29日、40歳の漱石は、一家をあげて本郷区(現・文京区)西片町十のろの7号から、牛込区(現・新宿区)早稲田南町7番地に引っ越した。

引っ越し当日は、例によって、猫の運搬を担当する鈴木三重吉をはじめ、小宮豊隆、野間真綱、皆川正禧といった門弟たちが手伝いにきていた。

漱石の最後の住まいとなった東京・早稲田南町の家は「漱石山房」と呼ばれた。写真は南側からの外観。写真/神奈川近代文学館所蔵

漱石の最後の住まいとなった東京・早稲田南町の家は「漱石山房」と呼ばれた。写真は南側からの外観。写真/神奈川近代文学館所蔵

引っ越し先には、およそ340 坪の敷地の中央に60坪ほどの平屋建ての建物があった。和洋折衷のつくりで、部屋数は7間。漱石の生まれた実家のあった場所からも数百メートルの近さで、漱石はなんとなく懐かしい気持ちがわいてくるのだった。

60坪7間というと、かなり余裕があるようにも思えるが、そうでもなかった。子供の数が多いし(引っ越し当時4人いて、その後さらに3人増える)、当時の中産階級には当たり前の風習として住み込みのお手伝いさんもいる。むしろ少々手狭なくらいで、のちには増築もされた。

もとは医院として設計されたため、この家には住居スペースに診察室がついていた。漱石はその板敷きの10畳間に絨毯を敷いて、愛用の紫檀の文机と火鉢を置き、壁面いっぱいに書棚を組み、書斎とした。隣接する10畳の和室と、ふた間続きで使用し、多くの門弟や客人たちを迎え入れた。

西片町の大家は因業だった。はじめ27円で借りた家賃をすぐに30円に値上げし、さらに35円にすると言い出した。わずか9か月の間に2度の値上げ。漱石の文名が上がるのを見て、欲が丸出しになったのだろう。

漱石はそのやり口に憤りを感じ、引っ越しをしようと思い立った。あまりの腹立ちに、損害賠償さえすれば何をやってもいいと聞かされた漱石先生、立ち退きの際、8畳の客間で悠々と小便をした、との伝説も残っている。やるもんですねえ。

今度の引っ越し先は、それとは対照的だった。4日前、妻の鏡子が早稲田南町の新しく借りる家の差配人のところに行って漱石の名刺を出すと、好意をもって受け止め、

「この家は家賃40円ということで出していますが、長くいてくれるなら35円にしときますよ」

そう言ってくれたのである。

当初、家賃の予算は30円と考えていたが、そんな相手の心意気にも打たれ、漱石夫妻はこの家を借りることに決めた。これがいわゆる「漱石山房」。この地から漱石先生は、『三四郎』『心』『明暗』といった数々の名作を生み出していく。

なお、「猫という動物は、人になつくより家になじむ」という言い方があるが、夏目家の猫も引っ越し後、時々、最初に居ついた千駄木の家へ戻っていたらしく、漱石はこんなふうに語っていたことがあったという。

「あの猫はね、こっちへ引っ越してからも、旧(もと)の家へ折々帰って行くのだ。この間も道であいつが小便をたれているところをうまくとっつかまえて連れて戻った。やっぱし旧の家というものは恋しいものなのかな」

■今日の漱石「心の言葉」
家が狭くて弱っている。どうか越したい(『書簡』大正元年11月9日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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