「もう今晩帰宅してもいいですよ」
医者はそう言うのだが、言われた病人の方がまだ心もとない。
「もうしばらく入院させてもらえないでしょうか」
そう申し出た。
それが、今から104 年前の今日、すなわち大正元年(1912)9月28日、東京・神田錦町の佐藤診療所における、漱石と担当医とのやりとりだった。担当医は同診療所院長の佐藤恒祐に他ならない。
2日前、漱石はこの病院で痔の手術を受けていた。前年9月に続いて2度目の手術。前回は入院するのは嫌だからと、頼み込んで自宅で処置してもらったが、今回はそうはいかなかった。
局部麻酔によるおよそ20分の手術で、肛門括約筋の一部を切除したのだった。いつも長時間、机の前に座して執筆や読書に明け暮れている漱石だから、一種の職業病といってもいいのかもしれなかった。
漱石が入院しているのは診療所の2階の病室。窓からは柳が一本見えた。その柳の枝先が風にゆれていた。
この手術の体験は、のちに小説『明暗』の中に生かされることになる。
どんな病気でも、医師による、いわば外側からの見立てや統計的なデータより、本人が体の内側から感じ取る実感的な感触の方が、微妙な体調の好し悪しを反映しているケースは、往々にしてあるだろう。
この時も、実際、漱石の感覚の方が的確だった。翌朝の回診では、佐藤院長の見立ても前日とは一変した。
「やっぱり、もう2、3日はそっとしていた方がよさそうですね」
医師は漱石にそう告げた。無理に動くと出血する危うさもあるとのことだった。
もともと佐藤の専門が性病で痔疾ではなかったことも、見立てのずれと関係していたかもしれない。では、なぜ、専門外の佐藤が漱石の手術を担当することになったのだろうか。
漱石が最初に肛門部に違和感を覚えたのは、明治44年(1911)の9月初め頃。大阪の湯川胃腸病院に入院中のことだった。漱石は大阪朝日新聞主催の関西一円での講演の直後、胃潰瘍で倒れ、この病院にひと月ほど入院していた。その入院中に違和感を覚えたのである。
胃潰瘍の症状が少し落ち着き帰京した漱石は、東京ではもう入院生活を続けたくなかったので、胃腸病の主治医で近所に開業している須賀保医師に往診を頼んだ。そのとき同時に肛門部の異常も訴えた。
連絡を受けた須賀医師のところに、たまたま佐藤医師が碁を打ちにきていた。そこで佐藤が応援に駆り出された、というわけだ。
このころ専門化が進みはじめた医学界で、細かくいえば専門外だが、おおまかにいえば、肛門部の異常を診察するのは須賀よりも佐藤の方が適任だった。
こうした行きがかりから、佐藤が漱石の痔の手術を担当することになったのである。
結局、漱石が佐藤診療所を退院したのは10月2日。まる1週間の入院生活を送った、45歳の漱石先生だった。
■今日の漱石「心の言葉」
今現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない(『明暗』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
